自分じゃなくなっていく

03.精神障害のこと
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かれこれ10年ほど、精神科や心療内科のお世話になっている。

はじめて心療内科を受診したときは、「抑うつ状態」という診断を受けた。当時は不眠、慢性的な疲労感、気分の落ち込みなどがあったから、まあまあ適切な診断だと思う。

そのあと、通院と投薬によって「抑うつ状態」の治療を進めていたが、抗うつ剤を飲んでいたら病状が急変、ここで「双極性障害(躁うつ病)」の診断を受け、今にいたる。

当時の主治医に勧められて、発達障害の検査を受けたことがある。WAISだったかWISCだったか、名前は失念したが、動作性IQと言語性IQを測り、ふたつの数値の乖離を調べる検査だった。はっきりと結果は覚えていないが、言語性IQが130くらい、動作性IQが110くらい、数値は20くらい乖離していたが、両方とも平均より上だからということで、発達障害の診断は下りなかった。

検査結果を見た主治医から「検査結果は違ったけど、俺は君がADHDだと思ってる」と言われたことを覚えている。検査結果はシロだろ、なにを根拠に人を障害扱いしやがるんだ、失礼な奴だな、と思ったが、口には出さなかった。

10年間も精神科や心療内科へ通っていると、いろんな種類の薬を飲むことになる。抗うつ薬、安定剤、抗不安薬、鎮静剤、睡眠導入剤など……今までに、たぶん十数種類以上は試してるんじゃないかな。おかげで、向精神薬には、かなり詳しくなった。

はじめて飲んだ抗うつ剤は、性機能を殺すことで有名な「サインバルタ」だった。正直言ってあんまり「効いた!」という記憶はない。ただ、性機能はてきめんに死んだ。思い出深い。

双極性障害の診断を受けてから、「リーマス(炭酸リチウム)」という薬を飲みはじめた。リーマスをはじめて飲んだときは、本当に感動した。当時は、気分の乱高下に悩まされていて、躁状態とうつ状態を行ったり来たり、アッパーになってメチャクチャなことをする→ダウナーになって後悔して落ち込む、というサイクルを、数日~数週間周期で繰り返していた。

心身ともに疲れ果てていたところに、リーマスを服用したところ、ビックリするほど気分が凪になった。躁状態のときの、目まぐるしい思考の波も、うつ状態のときの、地の底に落ちたような気持ちも、一気に吹き飛んだ。

衝撃的な体験だった。世界が輝いて、なにもかもを取り戻したかのように思われた。しばらくしたら、それにも慣れてしまったが。リーマスは、躁うつ病治療ではメジャーな薬剤で、今でも服用を続けている。

そして最近、また新しい薬剤を試すことになった。「ストラテラ」という名前の薬、発達障害(ADHD)の治療に使われる薬である。

最近、カウンセリングを始めて、月に2回ほど、心理士さんと話をしている。前回のカウンセリングのなかで、「最近の困りごとを話してみて」と言われた。私の最近の困りごとは、2つあった。

ひとつめ、人の話が、聞こえなくなるときがある。先日、友人と飲み屋へ行ったとき、店のテレビで「警察24時」が放映されていた。音量が少し大きめ、そのせいで、集中力がごっそりテレビの音声へ持っていかれてしまった。対面で話している友人の声が、一切聞き取れない、話が理解できない。なにかの拍子で、店の主人がテレビの電源を消すまで、まともに会話ができなかった。

こういうこと、それまでもよくあった。たとえば、喫茶店で隣の席の会話が聞こえる、スーパーで前の客の声が聞こえる、聞こえる範囲の声はすべて頭のなかへ入ってくるような感覚がする。以前は、なんの支障もなかった。目の前の相手と会話をしながら、隣の会話に耳をそばだてる、そんな器用な真似もできた。それが最近は、ただ膨大な情報が耳から入ってきて、選択的に聴取できず、脳がパンクしてしまう。

ふたつめ、視覚でも、おなじことが起こる。たとえば、新宿駅の構内を歩いているとする。すると、周囲を歩いている人の姿が、いっぺんに頭の中に入って、脳がパンクする。これも、以前は処理できていたが、最近はムリになってきた。

そういうカウンセラーさんにしたら、「ADHDっぽい症状だね」と言われ、主治医とも相談のうえ、ストラテラを服用することになった。

正直、発達障害とはなんなのか、ADHDとはなんなのか、ストラテラの薬効とはなんなのかについては、あまり詳しく知らない。医者でもないのに、これ以上病気や障害や薬について、詳しくなりたくない。ということで、言われるままに、ストラテラを服用した。

医師からは「とりあえず、寝る前に飲んでみて」と言われたので、寝る前に飲んだ。そうして翌朝目を覚ますと、いつもより明らかに寝覚めがいい。よくある中途覚醒(不眠症状)かと思い、時計を見る。時刻は午前6時を回ったころで、窓の遮光カーテンの隙間からは、明るい朝日がのぞいていた。

はじめてリーマスを飲んだとき以来の、衝撃体験だった。昨日までずっと悩まされていた、頭のもやもや、思考のノイズ、原因不明の不安感や焦燥感が、ウソのように消え失せていた。精神が、地に根を張ったように落ち着いている。視界と思考が、クリアになったように感じる。昨日まで、というかほんの10時間ほど前の自分とは大違い、自分が自分じゃないみたい! そんな感じだった。

しかしながら、とくにやるべきこともないので、頭がスッキリしたところで、家事やなんやかんやを済ましていた。そして、お昼に差し掛かろうとしたとき、強い疲労感を感じ、身体がグッタリしてきて、そのまま昼過ぎまで眠ってしまった。やっぱりね。薬を足したくらいで、万事解決するほど、障害のケアは甘くない。

とはいえ、ストラテラは、劇的に効いている。人混みで不安を感じることはなくなった。周囲の物音や声が、過剰に気になることもなくなった。あと、些細なことでイライラしなくなった。ストラテラを服用する以前と比べると、いい意味で角がとれたように思える。

といった感じで、薬で自分の調子をコントロールしながら、今日までやってきた。最近も、ストラテラで感動体験を味わったわけだけど、薬が「効いた!」と感じたときには、回復の喜びと同時に、非常に強い不安に襲われる。

それは「服薬以前の自分と、服薬以後の自分は、はたして同一の自分だろうか」という不安だ。

「薬を飲んだだけで、そんな変わるわけないじゃん」って思われるかもしれない。向精神薬の効果は、傍目から見てもわかりづらいかもしれないから、効き目が信じられないのはわかる。でも、主観的には変わる。薬が「効いた!」となった瞬間、劇的に変わる。

まず、人格が変わる。私は、ストラテラを服用する以前は、常にイライラしていた。他人の些細な所作、些末な発言に対しても、ストレスや攻撃性に近いものを感じていた。実際に怒鳴ったり、暴力を振るったことはないけど、それに及びかねないくらい、いつもイライラしていた。

それが、ストラテラを飲んだら、ほとんど一切のことにイライラしなくなった。たとえば、失礼な発言をされても、わずかな怒りさえ感じない。常に広い心を持って、人に、世の中に接することができるようになった。

認知も変わる。家庭内での些細ないさかい、たとえば、妻の趣味の道具がテーブルの上にとっ散らかっていたとか、泥酔した妻から深夜に絡まれるとか、それくらいのことでも、強いストレスや怒りを感じていた。

なぜ怒ってしまうのか。妻の行為のひとつひとつが、すべて私に対する嫌がらせ、悪意を持った行為だと思っていた。あるいは、私のことを尊重していない、軽視したための行為だと捉えていたからである。そんなはずはないのに、そう感じて、勝手に傷ついて、苛立ってしまっていた。

それが今では、妻の行為は、だいたいすべて許してしまえるような気持ちになっている。好きなようにやるといい、君が楽しめていればそれでいい、君の笑顔はサイコーさ、そんな感じになっている。妻が私に悪意を抱くはずがない、妻が私を軽んじるはずがない、妻への信頼を取り戻せたかのように感じている。

行動や言動も、変わる。これについては、あまり書きたくないので割愛するが、とにかく服薬後は穏やかになったと思う。一時の激情に流されて人を傷つけることがないよう、ある程度の配慮ができるようになったと思う。

あくまで主観的な話だが、ストラテラを服用する以前と、服用した以後とでは、自分がまったく別人になってしまったように感じる。正直、めちゃくちゃ怖い。薬に人格を操られているようにすら感じる。薬が効くごとに、自分が自分から遠ざけられていくように感じる。

リーマスを飲む以前と、飲んだ以後の変化はもっと強烈だった。リーマスを服用する以前は、強めの躁状態におちいることが多かった。外部に対していつも攻撃的で、療養に付き合ってくれていた両親を、感情に任せてひどく罵倒したことなどもあった。自己破壊的な行為も多く、過剰な飲酒や、浪費が止められなかった。衝動性が抑えられなくて、真夜中に車に乗って、何時間も走り続けたり、突発的に遠くへ出掛けてしまうこともあった。それが、リーマスを飲んだ瞬間に、すべて一切消えた。

いや、人間の人格なんて、そんな強固なものではないのは、わかってる。人間の人格は、時間の経過とともに、徐々に変化していくだろう。また、なにか決定的な事件が起きたら、劇的に変わることもあるだろう。私の人格だって、進学や転居、就職などのタイミングで、少しずつ変わっていても、全然おかしくはない。それはわかる。

そういう人生のイベントが、人格形成の一環になりうるというのは、わかる。人生いろんなことがあって、いろんなことを見聞きして、いろんなことを感じていく。ごくごく普通のことだし、素晴らしいことだと思う。

でも、薬は違う。なにかを経験したわけではない。なにか、自分の感受性を働かさせたわけでもない。ただ何錠かの薬剤を服用しただけ。それだけだ。たったそれだけのことが、自分の人格に影響をおよぼすのが怖い。

「認知行動療法」というのがある。あまり詳しくはないが、与えられた課題に取り組むことで、自分の物事の捉え方や、行動特性を修正するというものだったと思う。やったことはないが、これはいい。自分の頭を働かせて、自分の身体を使っているから。

薬、そういうのがなにもない。飲んだ、スッキリした、終わり。非常に気持ち悪いし、恐ろしい。

そりゃ、薬の機序については、私も調べたから知っている。要するに、人間の人格なんていうのは、脳内伝達物質が作り出す幻だと、それくらいのことは私も知っている。でも、信じたくない。私は私という、確固たる人格が存在していて、それは膨大な時間と、膨大な体験を積み重ねて作られたもので、たとえ大したおもしろみはなくても、私にとっては、唯一無二のものだと、そう信じたい。

ところがどっこい、唯一無二であるはずの私の人格は、薬ですべてひっくり返ってしまう。いや、別に悪いことじゃない。薬を飲む前は、つらかったし、苦しかった。そういう苦悩が、どこかへ消えてくれるのは、うれしいことだ。反面、常に私のそばにあった苦悩が、なんの苦労もなく、ただ薬を飲んだだけで消えてしまったことに、深い葛藤を覚える。

私は、苦悩を克服することも、自分の人生の価値のひとつだと思っている。ましてや、つい先日まで私が苦悩してきたこと、たとえば、将来への不安や、現在の生きづらさ、過去を消化できない苦しみみたいなものは、すべて私自身で克服することに意味がある。というか、私自身で克服しないと、無意味だと思っている。

私が抱えている問題に対して、真っ向から取り組むにしても、背を向けて逃避するにしても、いったん棚上げするにしても、私自身の意志で決めていかなければいけない。これは、今後の私の人生、すべてにおいてそうだ。

薬を飲んだら、そういう不安がさっぱり消えた! すごくポジティブになれました! よかった! よくねえよ。

たしかに、体調はよくなった、劇的によくなった。これなら、またすぐ働けるかもしれないくらいによくなった。しかし、今後の生活をどうしていくかということは、現実の問題として残っているし、将来への不安や、過去の軋轢も消えたわけではない。単に、それを感じなくなっただけ、すべて棚上げしてるだけ、精神的な感覚が、鈍麻しただけなんじゃないか。

私の精神が、もうブッ壊れているというか、おそらく自立できる状態でないというのは、わかっている。病気でボロボロになって、フラフラして崩れかけの精神を、薬という「たが」で締めつけ、鉄骨を入れて支えている。それが、今の私の状態だろう。

以前は気まぐれで、あるいは、気持ちを薬に左右されるのが嫌になって、勝手に断薬したこともあった。ここ5年くらいは、勝手な断薬はしていない。薬をやめたら、精神が破綻してしまう。だから、投薬治療は、絶対に続けなければならない。

薬で維持されている、私の人格、いったいなんなんだろうか。投薬治療を続けるなかで、ずっと疑問に思っている。「本当の自分とは……」みたいな、青臭い話ではないんだけど、病前と病後、投薬前と投薬後で、自分の言動・行動が、ガラッと変質してしまっていて、これは果たしておなじ人間と言えるのか? という疑問が、常にある。

「私はこういう人間だ」と、言い切る自信がない。病気の前後と、投薬の前後で、人格に連続性がないように思える。薬が効いているときには、薬が効いていないときの私、荒んで乱れた私のことを、まるで他人のように思ってしまう。薬が効いていないときは、薬が効いているときの私、穏やかで寛容な私のことが、まるで他人のことのように見える。

つらいというより、怖い。病気と薬によって、価値観も、人生観も、なにもかもが、一晩でコロッと変わってしまうのが怖い。経験の蓄積や、他者との人間関係などの意味が、一晩でコロッと変容してしまうのが怖い。今日大切に感じていたものが、明日になったらそうではなくなってしまうのが怖い。

過去の私が、他人のように見えてしまうから、人生における価値の蓄積ができない。過去の人生に、価値を見出だせなくなる。だいたい過去はボロボロで、将来にも大して期待できない。だから、簡単にリセットボタンを押そうと、自殺を図ってしまったのかもしれない。

薬をやめたい。心底やめたいが、双極性障害が寛解することは、ほぼないらしいので、薬をやめるわけにはいかない。原因をさかのぼって、病気が取り除かれればいいのに、とも思うが、今の医学では、どうもムリっぽい。

これからも、病気と薬に振り回されながら、生きていかなければならない。もう病歴も長いから、「そういう病気だから」というのは百も承知だし、悔やんでも仕方がない、恨み言を言ってもしょうがないことも、わかっている。障害と投薬については、あきらめて、受け入れるしかない。本当にイヤな伴侶だ。

でも、怖い。自分とはなんなのかを忘れてしまいそうで怖いし、そのうちに「今の自分」がキレイさっぱりいなくなってしまいそうで、怖い。

以前SNSに「何者かになりたい」「なにかを成したい」と書いた。その根源的な理由が、この「自分がいなくなる不安」である。

私は私だよという自信を、私の内面に求めるのは、むずかしいと思う。私の内面は、病気と薬のせいで、たえず、目まぐるしく変化をし続けている。私の内面は、きっと定まらないままだ。

だから、せめて私の外に、その証左を求めたいと思う。妻がいてくれるのは、幸いだ。妻は、いつも私のことを見てくれているし、これから先も、きっと憶えていてくれるだろう。友人たちも、そう。

妻や友人たちには「金をよこせ」とか「飯を食わせろ」とかは言わないから、ただ私が「こういう人間だった」ということを、憶えておいてほしい。そして、私に対して違和感や嫌悪感を感じるようになったら、率直に教えてほしい。

できれば、自分の考え方や、物事の捉え方を、自分の外に記録しておきたい。最近よくブログを書くようになったのは、そのためだ。あとから読み返して、私がなにをどう感じて、どう考え、どう行動したのかを、保存しておきたい。それを読んで、私の行動原理を、はっきりと見つけたい。

年明けから、日記もつけている。たまにサボって、飛び飛びになっているが、一応は続いている。コレは人には見せられないから、よりプライベートで、より詳細に書いている。これも、たまに読み返している。

今の自分のことは、好きだ。というか、私は自分が大好きで、自分のことがキライだった時期は、たぶんない。過去に自殺未遂を図ったときも、「今の私のまま、最期を迎えたい」という思いで、死のうとしていたような気がする。

独り身のときは、わりとカジュアルに死を意識していたが、もう結婚してしまったので、おいそれと死んではいけない気がする。というか、いけないんだろう。

つい先日まで「死にたい期」というか、わりとキツめの希死念慮に悩まされていて、「今が人生のピーク! 死ぬなら今!」みたいな発想、「株価が天井の株式を手放す時のトレーダー」みたいな気分になっていたが、今回もなんとか耐えきることができた。おめでとう。

今、現在は、たしかにすごく幸せだけど、仮に今がピークだったとしても、これから先もずっと、死ぬまで妻と一緒に生きていきたいと思う。

現在は、生活もおおむね上手くいっているから、「大好きな今の自分」が変化してしまうのは、さみしいし、つらいし、怖い。だけど、過去がそうだったように、今後も変化していくことは避けられない気がする。最近も、また薬が増えたし。3~4年周期で、心が大地震に襲われるし。

だから今は、生きることを第一に、障害と向き合い、生きることを第一に、薬を飲んでいる。少しでも穏やかに生きていたいし、心安らかに生活したい。ちゃんと薬を飲んでいても、ダメになるときはダメになる、ムダな抵抗かもしれないけど、やるべきことはやるべきだろう。

あと、できれば、今の大好きな自分を、自分の外へ形として残して、それを道しるべにしながら、これからを生きていけるようにしたい。このままだと、また思春期の少年のようになって、路頭に迷ってしまう。

10年後、20年後の私は、今の私じゃないかもしれない。病気と薬が、精神を、自我を、人生を徐々に変化させていく。それでも、10年後、20年後も、ちゃんと生きていたい。

生きることに、理由はない。生きていたいから、生きていたい。これだけは忘れないようにしたい。

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