幸せは移り気なので

02.メンタルヘルスのこと
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昨年秋に、勤めていた会社を、病気が原因で退職した。双極性障害(躁うつ病)という精神障害。

会社を退職してから、「なんのために生きるのか」「幸せとはなんだろうか」ということについて、よく考えるようになった。

会社をやめる前は、たしかに幸せだった。給与には若干不満があった。大きなぜいたくはできない。でも、生活に不安はない、多少余裕を持って暮らせるくらいの給与をもらえていた。仕事のやりがいはイマイチ、だけど、就労環境はごくごくホワイトだった。小さな会社だったが、役職も与えてもらっていた。人間関係にも、おおむね恵まれていた。

家庭も円満だった。妻とは強い信頼関係で結ばれていて、お互い支え合っているという安心感があった。家に帰れば、なんの心配もなく妻と一緒に食卓を囲む、そんな暮らしだった。

友人にも恵まれていた。仕事が終わってから、みんなで飲みに行ったり、休日は一緒に遊日に出かけたり、たまには旅行をしたりなんかして、ひとりで過ごす時間なんて、ほとんどなかった。

あのころは、間違いなく幸せだった。

それが、会社をやめた途端に、一気に崩れた。

収入は消えて、暮らしは不安定になった。会社での肩書、そもそも会社員という立場を失って、なんだか社会での居場所を失ってしまったように感じた。

会社をやめたあとは、毎日毎日、家で妻の帰りを待つ日々。そんな自分に嫌気が差して、酒におぼれた。妻と衝突することが多くなって、お互いやり場のない不平不満を抱えて、家庭の空気は、どんどん悪くなっていった。

友人たちとも、距離を置くようになってしまった。友人たち、みんな社会でちゃんとやっていっている。一緒にいると、どうしても自分がミジメに思えてしまう。卑屈になって、居心地が悪く感じるようになっていた。

この時期は、ちょうどキツめのうつ状態におちいっていて、気持ちが余計ネガティブになっていた。あまりにも強い不幸を感じて、何度も「もう死んでしまおうか」と思った。

今はうつ状態は過ぎ去って、わりと平穏な日々を過ごしている。しかし、「死んでしまおうか」という希死念慮(「死にたい」という観念)がきっかけになって、「なんのために生きるのか」という疑問が芽生えてきた。

「幸せになりたい」ずっと、そう望んで生きてきた。そのための努力も、それなりに尽くしてきたつもりではいる。

新卒で就職するときの目標は、「30歳で年収1,000万円」だった。そのために、給与水準の高い大手の会社に入った。会社に入ってから、「新入社員ノート」をいう冊子を与えられた。そのなかに、今後のライフプランを記入するページがあった。私は、「28歳で結婚、30歳で第一子誕生、32歳で第二子誕生、35歳でマイホーム購入」と書いた。これが、私にとっての次の目標になった。

会社に入ってから、資格試験や、社内の昇進試験は、漏らさずパスしてきた。仕事も、毎日朝イチで出社し、最後まで残業していた。休日もムダにしないよう、社内外の集まり、異業種交流会などに顔を出して、人脈を作るようにしてきた。20代半ばに双極性障害になったが、それからも、ハンディを挽回するように努めてきた。

だけど、20代のころの努力は、今はなにも手もとに残っていない。新卒で入った会社は、結局やめてしまった。当時の恋人とは、いつのまにか音信不通。あれだけたくさんいた友人たち、広かった人脈は、キレイサッパリ消えてしまった。

「幸せになりたい」ずっとそう望んできて、努力も欠かさなかった20代だったのに、終わってみれば、なにも残らなかった。

30代になってからも、「幸せになりたい」と思って生きてきた。しかし今、本当に「幸せになりたい」という生き方でいいのか、「幸せ」を目指して生きていていいのかということに、強い疑問がわいてきた。

そもそも、「幸せ」とはなんなのだろうか。お金があれば幸せか。いい会社に勤めていれば幸せか。地位や肩書があれば幸せか。パートナーがいれば幸せか。今までの私なら、答えはすべて「イエス」だろう。そういう志向で生きてきた。

お金がないと困るし、ありすぎても困るということはない。いい会社に入れば、上手くすれば一生安泰だ。地位や肩書があれば、世の中でやっていきやすくなる。パートナーについては、個人の思想によるだろうが、私としてはいたほうがいいと思う。

いろんなかたちの幸せがある。私でいえば、会社に入ってからの目標「年収1,000万円」「28歳で結婚、30歳で第一子誕生、32歳で第二子誕生、35歳でマイホーム購入」が、そのまま幸せのかたちだった。

現実を見てみると、今から年収1,000万円を目指すのは、なかなかむずかしいものがある。結婚はしたが、双極性障害は遺伝するという説があるので、子どもはもうけたくない。精神障害を持っていると、住宅ローンが組めないので、マイホーム購入もむずかしい。かつて望んだ幸せは、いまはもう手に入らないことがわかる。

「あのころの幸せは、もう絶対に手に入らない」と考えると、とてもつらいのだが、じゃあ今は不幸なのかといえば、そんなことはない。あいかわらず仕事はないし、身の上もグチャグチャなのだが、少なくとも私自身は不幸は感じていない。

むしろ、今以上に「幸せになりたい」と望んで、努力を尽くしていた20代の自分こそ、不幸だった気がする。

「28歳で結婚」が目標だったから、20代半ば、シングルのころは、今で言う「婚活」に必死だった。当時は街コンなどが流行りだした時期で、よく将来の相手を探しに出かけていたが、やり方がマズかったのか、その努力が実を結ぶことはなかった。

「30歳で年収1,000万円」が目標だったから、頭一つ抜けて昇進する覚悟でやらなければならない。そのため、人事の査定ばかり気にして、上の顔色ばかりをうかがっていた。もちろん仕事は頑張っていたが、その結果として、双極性障害になった。そうしたら、人事からは「問題のある社員」というラベルを貼られて、昇進の望みも断たれてしまった。

幸せだった時期について考えてみる。30歳のときに上京してからは、おおむね幸せだった。ただ、なにか明確な志向を持って努力をしたかといえば、とくになにもしていない。なんとなく就職して、なんとなく結婚して、なんとなく生活をしていたら、とても幸せになっていた。いっとき体調を崩して「不幸」になったが、1年ほど耐えていたら自然と回復して、また「幸せ」になってきた。

そこで思ったのが、「幸せ」のために努力するのは、バカバカしいんじゃないかということ。「年収1,000万円」や「28歳で結婚」みたいな目標のために、必死になって努力するんじゃなかったということ。

「年収1,000万円」にしても「28歳で結婚」にしても、どちらも「誰かから与えられるもの」だ。勤務先がなければ年収1,000万円はありえないし(学生時代は、独立起業という選択肢はなかった)、相手がいなければ結婚はできない。要するに、自分がいくら努力を尽くしたところで、その「幸せ」が手に入るかどうかは、わりと運次第ということだ。

努力を尽くして、幸せを得られることもある。そういう人も、結構いる。ただ、「努力すれば、みんな幸せになれる!」みたいなことを言ってる人を見ると、「それは生存者バイアスでしょ」と思ってしまう。

逆に、べつに努力しなくても、幸せを得られることもある。たとえば、今の私、なにをしているわけではない、多少将来への不安はあるが、毎日とても幸せである。

あと、どれだけ努力を尽くしても、幸せを得られない場合もある。たとえば、20代のころの私のように。

幸せは、とても移り気だ。望んで手に入るとは限らないし、いつまでも手もとに留まってくれるとも限らない。

幸せを手に入れる、幸せを留め置くために、自分がいくら必死に努力しようと、幸せはなんとなく来て、なんとなく立ち去ってしまう。幸せは、私の手の届く範囲のなかにはないのだろう。あるときフラッと私のもとへやってきて、あるときフラッと私のもとから去っていく。幸せに後ろ髪はないから、引き止められない。

私にとっての「幸せ」とは、まったく努力がおよばないもので、努力がおよばないもののために努力するのは、まったくムダだと思う。20代の私、ムダな努力で、身体と精神まで壊してしまった、マヌケですらある。

もちろん、幸せを手に入れようとする努力は否定しない。「幸せを希求する心」みたいなのは、忘れてはならないと思う。夏目漱石も「向上心のないやつは馬鹿だ」と書いていた。自分が望ましい方向へ舵をとっていく努力は、欠かしてはならないだろう。

ただ、「幸せのかたち」にとらわれないようにしたい。たとえば「昇給したい」「出世したい」「年収1,000万円」「28歳で結婚」「子どもは2人」みたいな幸せのかたちは、すべて他人頼みだ。「他者から評価されたい」「世間に認められたい」みたいな幸せのかたちは、ゴールへの舵を、他人へあずけてしまっているように見えて、危ないなと思う。

「幸せ」みたいなフワッとしたもののために生きてくるんじゃなかった。

じゃあ、なんのために生きるのか?

なんの目的も持たず、根なし草みたいにフラフラと生きていくか。そういう人物、小説や映画の主人公なんかに、よくいるね。悪くはないと思うけど、私にはマネできそうにない。

なにかしら、生きる目的がほしい。うまい言葉が見つからないが、「生きがい」みたいなのがほしいなと思う。

「幸せ」と「生きがい」の大きな違い。幸せは外在的、あくまで自分の外側、自分の手が届かないところにある。生きがいは内在的、自分のなかにある。

幸せは移り気だから、来たり去ったりして、私のことを喜ばせたり幻滅させたり、私のことを振り回す。生きがいは一途だ。私がそれに「人生を捧げる」と決めたら、きっとそうさせてくれる。

生きがい、なんでもいいと思う。仕事でも、家庭でも、趣味でも、音楽でも、絵でも、スポーツでも、手芸でも、なんでもいい。「人生を捧げてもいい」と思えるものが、ひとつあればいい。

私も、生きがい、生きていく目的がほしい。「私はこのために生きている」と、胸を張って言えるようになりたい。私はチャランポランでだらしない人間だから、きっとなにか目的を持たないと、ちゃんとできない。

毎日きちんと働いたり、自分の務めを果たしたりしている人はすごいと思うし、うらやましく思う。私もそうなりたいし、そうありたい。

特に生きる目的を意識せずに、毎日の生活を送っている人は、本当にすごいと思う。そういう人は、きっと今まで生きてきたなかで、自然と生きがいに出会って、自然とそれを守り続けているのだと思う。偉大だ。

私の実家の話だが、「家のローンがあるから」と、遅くまで残業にはげんでいた父の姿は、世界一カッコいいと思う。「生活があるから」と、淡々と家事・育児・パートにはげんできた母も、最高に素敵だと思う。

生活を送っていくというのは、偉大なことだ。美しいし、素晴らしい。

今の私は、とても無意味に生活している気がする。私自身のためにも、妻のためにも、人のためにも、なんのためにもなっていない。このままでいいのか、いいわけないよなと、いつも不安でいる。やっぱり、生きる意味や目的がほしい。なにかのために生きていたい。

幸せは心地よくて魅力的だけど、とても移り気だ。幸せに自分の人生をあずけてしまうと、幸せが立ち去ったあとは、なにも残らない。幸せに振りまわされるのは、もうイヤだ。

移り気な幸せよりも、自分のなかのたしかな生きがいを守るために生きていきたい。些細なことでもいいから、自分の内側に大切なものを見つけて、それを守りながら生きていきたい。

貧乏でもいい、健康でなくてもいい、上手くいかないことだらけの人生でもいい。自分の人生のなかで守りたいものを、ひとつでも見つけられればいいと思う。

それで生きていって、結果的に幸せになれたら最高だろう。だけど、たとえ幸せになれなかった、不幸になったとしても、自分で選択して、自分で生活してきた結果だから、べつに構わない。

生きていること、生きていくこと。それ自体が、とても素晴らしいことだと思うから。

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