人間関係のこと

02.メンタルヘルスのこと
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人と話をするのが好きだった。

大学生のころ、いわゆる「意識高い系」のサークルに入っていた。インカレ(大学横断)のサークルで、定期的に他大学の部員たちとの懇親会や、合宿が開かれていた。当然、知らない人・そう親しくない人とも交流しなければならなくなる。参加は任意だったので、避けることもできた。

しかし、あえて積極的に参加した。理由は大きくふたつ。

ひとつは、多大学との交流で作った人脈が、サークル活動の充実に関わってくること。詳細は省くが、他大学の部員とコネを作っておくことの便益が大きかった。まあ、これはどうでもいい。

ふたつ、こっちが大事。私は、高校を卒業するまではとても内向的だった。高校時代、友達らしい友達は片手の指の数くらいしかいなかった。これはいけない、大学時代は挽回してやろうと思い、サークルの集まりには積極的に参加していた。

意識高い系サークル、バカにされたり冷笑の的になったりすることも多いけど、所属していると意外と居心地がいい。私が入ってたサークルは、ビジネスを軸に「人間的成長」みたいなのを目指すサークルだったんだけど、基本的にみんなポジティブでフレンドリーだった。

あと、やはり「人間的成長」がテーマなわけだから、倫理観の水準は高かったように思う。イジメとかハブりとか、まったくないわけじゃなかったけど、それほどは起こらなかったし、身の危険を感じることもなかった。

そんなわけで、大学時代は対人関係、とりわけコミュニケーション能力を鍛える時期だった。この時期はかなり気合が入っていた。たとえば、飲み会の前になると、参加するメンツについて事前にリサーチをして、参加者が食いつきそうな話題・場が盛り上がりそうな話題を用意したりしていた。少人数で集まるときなどは、事前に会話の台本めいたものを作っていた。今思えばかなり気持ち悪い。

しかしながら、そういったキモい努力が功を奏したのだろう。サークルを引退するころには、相手が誰であれ、あがらず、よどまず、会話をすることができるようになっていた。本来の目的であった友人も数多くできて、非常に充実した学生生活を送ることができました。よかったね。

学生時代につちかった能力は、社会人になってからも活きた。

新卒の会社では外回りの営業職についたんだけど、顧客からは大変かわいがってもらった。正直、なにを考えてるかわからない初対面の相手と話すより、利害関係のある顧客と話すほうがラクだ。関係性が定まっているから、相手の考えを予測しやすいし、こちらの振る舞いも決めやすい。

社内営業も得意だった。社内でもかわいがられていたから、私がミスをしても、いつも誰かが自主的にカバーしてくれる。叱られることは多かったけど、誰からも見放されることはなかった。毎晩上司や先輩に連れ回されるという弊害はあり、そこはヘタだったけど。

昔話と自慢ばかりしても仕方ないので、本題に。最近、人と話すこと・人と関係することが苦痛に感じるときがある。

私は旅行が好きで、昔からよくひとりで日本国内あちこちをブラブラしていた。一人旅をしていると、ときおり知らない人から声をかけられる、あるいは声を掛けることがある。たとえば飲食店で、宿で、移動中の電車やバスで。なにか困ったことが起きた、助けてほしいとき、道をたずねたいとき、または単に寂しくなって。

何年か前までは、旅先で見知らぬ人と話すことが頻繁にあった。旅先でたまたま出会った初対面の人と、一緒に食事をしたり、一緒にお酒を飲んだり、一緒に街を見て歩いたりする。旅情あふれるいい光景だし、私もそれを楽しんでいた。

それが、ここ何年かは、知らない人と話すことを大変な苦痛に感じるようになってきた。最近も、近所を散歩していたら中年の男性に道をきかれたのだが、頑としてシカトしてしまった。先日入った飲み屋でとなりの席の男性客から話しかけられたときは、面と向かって「話しかけてくるな」と言ってしまった。なぜだかわからないけど、知らない人と話すことがつらくなってしまった。

大人数で集まったときなども、そう。大学時代は、とにかくたくさんの人と交流を図ろうとしていた。サークルの飲み会では、毎回「参加者全員と1回以上話す」という目標を立てていた。社会人になってからも、上司・先輩には漏れなくお酌をするのが自分のなかのルールだった。それが最近では、もう自分の席から動きたくない。そばにいる人としか話したくない。というか、最近は大人数の集まり自体がキツい。

私はずっと「私は人のことが好き」だと思っていた。誰にでもわけへだてなく、というわけにはいかないけれども、大体の人とは親しくなれる、親しく接することができると思っていた。「人と人とは仲良くすべきだ」みたいな価値観を持っていた。「友達は多いほうがいい」そして「誰とでも友達になれる」そんな信念があった。

以前は、誰に対しても、初対面の人に対しても「友人のポーズ」を取っていた。初対面で、相手のことをよく知らない、よく見ないうちからフランクに接していた。「私はこういう人間です」とあけっぴろげに自己開示して、距離をちぢめようと、相手を取り込もうとしていた。

ところが最近は、他人をスッと受け入れられない。他人と親しくなるのに、ものすごく時間がかかるようになってしまった。多くの他人と親しくする必要性も、あまり感じなくなった。「仲良くなりたい人とだけ仲良くすればいいじゃん」みたいな考えになってきた。

最近では、初対面の人に対してはちゃんと「初対面のポーズ」を取るようになった。はじめはちゃんと「他人同士」からスタートして、時間をかけてコミュニケーションしている。会話のリズムを、話す内容を、身振り手振りを、私への態度を、相手の人間性を見極めてから、どう付き合っていこうかを考えている。

端的に言えば、面倒でこむずかしい人間になってしまった。

「みんなが仲良くすべき」と「みんなが仲良くする必要はない」とでは、どっちが正しくて、どっちが間違いということはないだろう。価値観による、時と場合にもよる、その日の気分にもよる。どっちでもいい、お好きなほうをどうぞ。私はいま、どっちにするかで悩んでいる。昨日はあっち、今日はこっちみたいな感じで、ひどく落ち着かない。

そういうわけで、以前ほど軽率に人間関係を結ぶのが困難で、おっくうで、怖くなっている。なにかきっかけがあったわけではないけど、気持ちがそういうふうに変わってしまった。

これはおごりかもしれないんだけど、以前の私は人と仲良くなるのが「上手かった」んだと思う。実際に会った人からは「気配りができる」とか「話の間が落ち着く」とか「話題を合わせてくれる」とか、おおむね高評価、星3つです。よかったね。

ただ、いままで私がやってきたことは「人間関係ゲーム」だ。相手の顔色をうかがって、話題を合わせて、会話を広げて、呼吸を合わせて、仲良くなれれば勝ち、みたいなゲーム。一見コミュニケーションしているように見えるが、じつはコミュニケーションしていない。そこには誠実さがない。

以前は、人のお悩み相談に乗ることがよくあった。私も、人の相談に乗るのが好きだった。悩みを打ち明けられると、相手から頼りにされている気がする。悩みを聞いているうちに、相手との絆が強くなる気がする。

お悩み相談をやりきるために、学生時代はコーチングの本を乱読したりもした。私のお悩み相談への評判は上々で、「気持ちが楽になった」「話してスッキリした」「助けられた」みたいなご感想が、多く寄せられております。よかったね。

でもコレも、結局ゲーム感覚なんだよな。相手を救う、ないし、救った気持ちになるゲーム。相手に寄り添うわけではない、ただ弁を弄して、相手の気持ちを操作して、相手が前向きになった、相手の気持が晴れたら勝ちの人間関係ゲーム。これに関しては、一概に悪かったとは思わないけど、やはりそこに誠実さがない。

人の秘密を知るのも好きだった。人から悩みの相談を受けていると、人から秘密を打ち明けられることもたくさんあった。自分で言うのもなんだけど、私は口がそこまで固くない。ただ、人から打ち明けられた秘密だけは、自分のなかに固く秘すと決めていた。

なんでか。人から打ち明けられた秘密は、私にとって、私だけの宝物だから。人間関係というゲームのなかで、他人の心というダンジョンを攻略して、奥底に眠る秘密の宝箱を開ける楽しみ。人の秘密は、選ばれた勇者にしか与えられないトロフィー。だから他の人には渡さない、話さない。結局これも、人間関係ゲームだった。

いまはもう、人のお悩み相談には気軽に乗りたくない。人の相談に乗るなら、相手と心中する覚悟で乗りたい。相手に寄り添って、一緒に悩んでいたい。そうでないと、それは誠実な態度ではないと思う。

他人の秘密も、もうあまり知りたくない。人の秘密、トロフィー感覚で集めるものではない。秘密を知ったら、それを守る責任・義務が出てくる。秘密を守るとしたら、墓の中まで持っていく。それくらいの覚悟を持って知らないと、これも誠実じゃないと思う。

最近は、相手のことを知るのが怖い。悩みや相談を持ちかけられるのが怖い。人に頼られるのが怖い。秘密を打ち明けられるのが怖い。

先日つれあいが「人と話すってことは、その人の大事な時間をいただいているってことなんだよ」と言っていた。PHP新書みたいなことを言うなと思ったが、たしかにそのとおりだと思う。

私は銭ゲバだから、すぐお金の話にしちゃうんだけど、たとえば平日の時給換算で2,000円/hの人と3時間お話ししたら、そこで6,000円の価値が発生しうるわけだ。その人の3時間をいただくってことは、その人の6,000円をいただいてるってことに等しい。だから、少なくとも6,000円分の価値がある会話をクリエイトして、相手に提供しないといけない。

っていうのは半分冗談なんだけど、「話し相手の時間をいただく」っていう考えは至極もっともだと思う。くだらない会話で相手を拘束するのは、相手に損害を与えているのとおなじだ。私がいままでやってきた人間関係ゲームが、まさしくそれだったと思う。遊びの関係で、いただいた時間をムダ使いしていた。

ほんの数年前までは、狂ったように人と会っていた。おもにSNSで、声をかけられれば誰とでも会っていた。私から「会いませんか?」と声をかけることも多かった。当時は地元から上京したばかりで、東京には知人・友人が誰もいなくて、「東京で新しく人間関係を築かなければならない」という必要性に駆られていた。あとは単に寂しがりやで人好きな性格もあり、SNS経由で100人以上の人と会った。そのときの人間関係のほとんどはいまでも続いているので、ありがたい。

上京してから、つれあいを友人の集まりに誘って連れていくこともあった。つれあいは、どちらかと言えば付き合う相手を選ぶタイプで、大人数の集まりとかはあまり好きではない。付き合いをムリ強いしたことはない(と思う)が、「飲みに行くから一緒に行こうよ!」と言うと、よくイヤな顔をされたり叱られたりした。

当時は、つれあいの気持ちがよく分からなかった。友達は多いほうがいいじゃん! みんなで楽しくやろうよ! その程度の感覚しか持っていなかった。だから、私が誘った飲み会に行き渋る、飲み会の帰りに不機嫌になるつれあいの気持ちが理解できなかった。

つれあいは、人間関係に対して非常に慎重な人間だ。初対面の人に対しては、おおむね構えて接する。つれあいは狭く深く付き合うタイプで、その友人関係は非常に緊密である。仮に、私とつれあいとがなにかでケンカをしたとして、それがつれあいの過失によるものだとしても、つれあいの友人は100パーセントつれあいをかばうだろう。それくらい、つれあいの友人関係は信頼に満ちているように見える。

対して、以前の私はわりと誰とでも親しく接することができた。「友達100人」じゃないけど、たとえば上京してから出会った人100人以上の人々のことは、みんな友人だと思っている。反面、深い付き合いというか、価値観まで共有している友人というのは少ない気がする。付き合いのある友人の、たとえば人生観や恋愛観などはあまり知らないし、理解できていない。

いままでは、つれあいと自分との人間関係を比べて、自分のほうが正解だと思っていた。誰とでも仲良くなろう、人間関係を外へ外へと広げていこう、そっちのほうが楽しい。そう思っていた。

いまは、つれあいの人間関係のほうが正しいと思う。つれあいは私より若干年上だが、さすが長く生きているだけある。あと、以前は大変申し訳ないことをしていたと深く反省している。

人に対しても、自分に対しても、きっとつれあいのような人間関係のほうが、きっと誠実で正しいんだろう。人と会うこと・人と話すことは、あくまで人間関係を築くための手段であって、それ自体が目的なわけではない。多くの人と会って、その場でいくら会話が弾んだとしても、それ自体には意味がないように感じられる。いまは。

たくさんの人と気さくに関わることは、べつに悪いことじゃないと思う。ただ、私みたくゲーム感覚で人と関係することと、本義的な「人間関係を築くこと」っていうのは根本的に違うんだなと、最近になって思うようになった。人間関係はゲームじゃない。他人は攻略対象じゃないし、親密さはトロフィーじゃない。そんなことにいまさらながら気づいた。

かつての私のように、とにかくたくさんの人と会って、会話を盛り上げて、相談に乗って、秘密を集めて、ゲーム感覚で人間関係を築いていくこと。あまりいいことじゃなかった。会ったことのある人の数・人脈の広さはステータスじゃない。テクニック的に会話を盛り上げても、そこからはなにも生まれない。無責任に相談に乗って、相手の心を惑わすのはよくない。他人の秘密はトロフィーじゃない。

もちろん、人間関係ゲームのなかから本当の人間関係が生まれることもよくあった。大学時代からの友人で、いまでも親しくしている人は何人もいる。上京してからもたくさんの友人に恵まれた。ただ、彼らに対する私は、ずっと人間関係ゲームの「プレイヤー」で、彼らにはずっとプレイヤーとしての私しか見せていなかった。プレイヤーを降りた、素の私を見たら、彼らはどう思うだろうか。とても不安である。

フランクに親しくなる態度が悪いと言いたいわけじゃない。友人が多い人、いろんな人とつながりがある人には、いまでも憧れる。ただ、いまの私のキャパシティだと、この速度で人間関係を拡大構築していくのは、かなりつらい。最近とみに人ギライが悪化していて、ここ何ヶ月かは親しい友人と関わることすらストレスフルになってきた。

反面、まだ人と関わりたい、交流を広げ、深めたいと思っている自分もいる。べつに他人になにかを期待してるわけじゃないが、いままでの私を救ってくれたのは、やはり人だと思う。人を大切にしたい。人と出会うことによって、私もまた変わっていくと思う。

人を救うのは、人だ。私が人に救われたように、人も私に救われてほしいと思う。「人を救いたい」だなんておこがましいことは思わないけど、「人が勝手に救われる」その一助になれたらうれしい。なので、ムリのない範囲で人間関係をやっていきたい。

一般論的な「いい人間関係」「悪い人間関係」というのは存在しないだろう。なにもかも時と場合による。でも、私にとって「望ましい人間関係」と「望ましくない人間関係」というのはあるかもしれない。それがどんなものか、いまは見当もつかないけど、少なくとも人間関係で自縄自縛してストレスを感じているような現状はマズい。

つれあいしかり、友人しかり、これからはもっとひとりひとりの人と真摯に付き合っていきたいと思う。今までのような人間関係ゲーム、コミュニケーションで相手を攻略する遊びはやめて、もっと価値観や人生観の交流をしていきたい。私は、関わる人たちが普段なにを考えて、なにに重きを置いて、なにを大切にして生きているのかが知りたい。

最後に、いままでに知り合いお付き合いを頂いているつれあいおよび友人諸兄に対しては大変失礼な物言いになったかもしれませんが、貴兄らのことは心より大切な友人だと思っております。これからも変わらずお付き合いくださいませ。

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