下降志向の私たち

03.精神障害のこと
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4年くらい前に、障害者手帳を取得した。区分は精神、障害等級は3級。

このころの私は、持病の双極性障害にたいへん苦しめられており、深刻なうつ症状に悩まされて、外出や日々の生活もままならない、「健常者」であるとは言えなかった。

じゃあ「障害者」なのかといえば、たしかに精神科へ通院し、薬物療法を続けていたものの、障害年金を受給しているわけでもなければ、障害者手帳も持っていなかった。「健常者でもなければ、障害者でもない」という、非常に中途半端なポジションだった。

傍目から見たら障害者ではないから、まわりからは「健常者」としての立ち居振る舞いを求められる。しかし、当時の私はといえば、躁状態とうつ状態を行ったり来たりで、意識が定まっていないことも多く、とてもまともな生活を送れる状態ではなかった。

この時期に、友人から「旅行をしないか」と誘われた。私は、あいかわらずのうつ状態でかなりまいっていたので、行くかどうか悩んだ。でも、友人の気遣いがうれしくて、結局旅行をすることにした。

友人と一緒に、車で出かけたのだが、とにかくしんどい。愉快な会話、キレイな景色、おいしい食事、なにもかもが負担に感じられて、なにひとつ楽しむことができない。旅行の後半は、ほぼ眠って過ごしていた気がする。気晴らしの旅行のはずが、帰ってきたら、体調は悪化していた。そんな体たらくなので、単なる遊びすら、健常者のように楽しむことができない。

そんなわけで私は、障害者手帳をとって「障害者になる」ことを決めた。手続について、記憶がアヤフヤでイマイチよく覚えていないが、主治医に診断書を書いてもらって、申請書と一緒に市の窓口へ提出するだけだった気がする。ものすごく調子の悪い時期だったので、簡単な手続きすら大変だったが、むずかしくはなかった。

障害者手帳をとったからといって、特別なにかが変わるとか、そういうことはない。税金の所得控除額が増える、公共施設・公共交通機関の利用料金が割引されるなどのオトクさはいくつかあり、たしかにありがたいのだが……障害者手帳を持っているということは、なんらかの障害を持っているということだ。その障害によるマイナスを考えると……決してうれしいアイテムではないと思う。

障害者手帳を取得したからといって、自身の障害をオープン(公開)にしなければならないということはない。手帳は、必要なときだけ提示すればいい。私は、今でもそうしている。

申請から数ヶ月くらいして、手もとに障害者手帳が届いた。正直に申し上げると、これで障害者に「なってしまった」のだという、悪い意味での感慨深さがあった。そのせいで、しばらくはグッタリと落ち込んでしまった。

とにかく、自治体から正式に「障害者」として認められたことで、健常者でも障害者でもない、中途半端なポジションからは解放された。「私は精神障害者なんだ」という自覚(?)を持ったことによって、生活に対する心持ちは変わっていった。

障害者手帳をとるまでは、どんな場面でも「自分は障害者ではないのだから、健常者のように振る舞わなければならない」と思っていたし、それが精神的な負担になっていた。たとえば、前に書いた旅行でも、そう。「はじめから終わりまで、友人たちと一緒に、旅行を楽しむ」ということを、義務のように感じていた。友人との旅行を楽しむこと、健常者なら、ごくごく当たり前のことだろう。しかし、当時の私には、大変困難なことだった。ムリにやりきろうとした結果、また調子を悪くしてしまった。

障害者手帳をとってからも、他人や社会に対して「私は精神障害者だぞ」と、いちいちアピールすることはない。なんなら、障害者手帳は、机のひきだしに仕舞ったままだ。でも、なにかしら行動するとき、あるいは、なにかしら判断をしなければならないときには、自分の心のなかで「私は精神障害者だから、ムリはしないでおこう」「私は精神障害者だから、健常者とおなじようにできないのが当たり前だ」と思えるようになった。

まあ、そのあとクローズで(障害を隠して)就労し、その結果、また体調を崩して退職しているので、なにやってんのって感じなんだけど。

とにかく、障害者手帳をとったことによって、ようやく心持ちが変わった。自分の精神障害について、多少なりともポジティブに受け入れられるようになった気がする。私の場合はだが。

話は変わる。当時私が使っていたSNSでは、「非健常界隈」というものが、盛り上がりを見せていた。「非健常界隈」とはどういうものか、過去の記事にも少し書いたが、端的に言えば、障害者手帳をとる前の私とおなじく「健常者と障害者の中間」をウロウロしていた人々のことである。

私のように、精神を病んでしまった人。精神を病みかけている人。ひたすら激務に耐えている人。パワハラ・モラハラの被害にあっている人。新卒を棒に振ってしまい、職を転々としている人。レールから外れて、非正規雇用で苦しんでいる人。集団に馴染めないまま、大人になってしまった人。なんらか心身に不調を抱えた人。さまざまな生きづらさを抱えた人たちが、そのSNSを通じて、集まっていた。

この界隈のことを知る以前の私は、ブラック非正規雇用と、精神障害のコンボで死にかけ、将来への希望は完全に失って、毎日ただ生きているだけのような状態だった。

非健常界隈で、うつ病だけどムリヤリ働いている人、給料のほとんどを※※に使ってしまう人、すぐ仕事を辞めちゃう人、不遇の中でも頑張って勤めている人、本当にいろいろな生き方をしている人と出会った。つらくても、みんな生活している。つらくても、なんとか生きていけるんだということを知った。

この界隈の人々と出会って、健常者でもなければ障害者でもない「非健常者」という集団が、アヤフヤだけどたしかに存在することを知って、本当に救われる思いだった。

私が非健常界隈にジョインしたときは、もう「障害者」になっていた気がする。界隈の人が、ときどき「障害者がうらやましい」あるいは「障害者はずるい」とつぶやいているのを見た憶えがある。最近では、非健常者でなくとも、似たような投稿をしているのを見かける。

はじめは、意味がわからなかった。私は障害者だけど、障害によって不利益をこうむり、また、障害によって苦しめられている。この境遇のどこが「うらやましく」て、どこが「ずるい」のだろうか。なんなら、立場を変わってやりたいくらいだと、怒りさえ覚えた。

だが、その一方で、かって私が感じていたものとおなじ苦しみ、健常者にも、障害者にもなれない居心地の悪さ、いたたまれなさを、きっと彼らも感じているのだろうと思った。

健常者の群れのなかでは、生きていけない。しかし、障害者にもなれない。そんな宙ぶらりんの立場では、ものすごく強いストレスを感じたし、私も「障害者」のスティグマを得たことで、心が救われた面はある。

まあ、みんなそこまで深刻に悩んでいない、なんとなく投稿しただけで、私ひとりがうがった見方をしているだけかもしれないけど。

「非健常者」にとって、障害者になることは、社会における一種の上昇とおなじ意味に捉えられているのかもしれない。そう思うと、とても悲しい。

最近、ツイッターで親しくしている(と、私は思っている)人が、「身体障害者の平均月給が23万円と聞いて涙を流している」という内容を投稿されて、そのあとで、「それ以下の賃金で働いているSNSユーザーばかりなのにどういうことなの」と続けられていた。

一般雇用で働いているSNSユーザーより、障害者雇用で働いている人のほうが賃金が高いことには、納得がいかないかもしれない。障害者ではないのに、障害者以下の待遇に甘んじていることは、つらいことかもしれない。「障害を負っていることで優遇されている」という考えが出てくるのも、ムリはないのかもしれない。

しかし、当たり前のことだが、障害なんて持たないほうがいい。障害なんか持っていないほうが、幸せだと思う。障害者のことを「ギフテッド」なんて呼ぶ動きもあるが、ふざけるなと思う。私は、可能ならばこの「ギフト」を、クソッタレの贈り主に送り返したい。まあムリなんだけど。

障害がひらいてくれた、新たな価値観・新たな人生というのも、たしかにある。自分の人生を振り返ると、双極性障害を持ってからのほうが、賑やかな感じさえする。でも、やはり障害はイヤだ。枷だ、重荷だ、持ちたくなかった。

健常者であれ、非健常者であれ、健康体になんらかの障害を持つことは、間違いなく「下降」だと思う。少なくとも、私にとってはそうだった。障害のせいで、仕事はオジャンになった。これから先だって、マトモに働ける見込みがあるのかないのか、わからない。

そういう話をしているのに、障害者をうらやむ非健常者がいる。まあ、彼らも実際に障害を持ちたい、心身に不自由をこうむりたいわけではなく、社会福祉制度など「障害者という立場・身分」「障害者であることの便益」をうらやんでいるのだろう。しかし、たとえ皮肉や冗談であっても、「下」を羨む、「下」に憧れる、「下」へ降りていきたがるのは、大変に世知辛いし、危険な話だと思う。

いわゆる「非健常者」の人々、障害者と比べて、心身は比較的健康だろうが、じつは最も「生きづらい」人々なのではないかと思っている。

乱暴な言い方だが、半端に健常であるため、医療福祉やセーフティネットの目にかからない。誰にも話せない、誰からも理解されない孤独な苦しみを抱え、それに苛まれながら、毎日を生きている。

たとえば、「発達障害」が注目されだしたのは、ここ10~15年のことだが、はじめは「新しい子供の病気」として注目されたことがきっかけだった。

この間、「大人の発達障害」というのは、まんまと見過ごされてきた。大人の発達障害、最近になってようやくフォーカスされるようになったが、見過ごされてしまった人々がいる。発達障害由来の生きづらさを抱えたまま、今でも生活し続けている人々がいるのではないかと思うと、すごく不安で、心細くなる。

なにかのきっかけで「健成り(「健常者に成ること」らしい)」できればいいけど、まあムリだろう……大人になってから自分の生き方を挽回すること、生活を一変させることは、非常にむずかしい。今まで生きてきた習慣とか、現在の環境とか、自身のプライドとかもあるだろうし。

だからこそ、「障害者」という明らかな身分、保護された身分に憧れる気持ちは、わかる。というか、私もそういう気持ち、そういう動機で、障害者手帳を取得してしまった。それが正解だったかどうかが、私にはわからない。

非健常者の方の話をうかがっていると、「障害」に該当しそうなケースも、多々ある。うつ病などの精神疾患を治療中の方は珍しくないし、自己診断ながら障害に近しい状態を訴えておられる方もいる。そういうとき、非健常者のままでいるか、それとも障害者になるのか、どちらが正しいか、どちらが本人にとってよいことなのか……私には、わからない。

かっての私は、まさしく「非健常者」だったが、障害者手帳をとることで、はっきりと「障害者」になる選択をした。インターネットでは、障害をオープンにしているけど、現実では一切のことを隠している。前いた会社に就職するときも、双極性障害のことは黙って入社した。

次に就職するときは、また会社に障害を隠して、健常者の皮をかぶって就職するかもしれない。いつかダメになることは、目に見えているとしても、そうせざるを得ないかもしれない。まだ悩んでいる。

個人的な考えだが、どうしてもつらい場合以外は、非健常者のまま、またはムリしてでも、健常者のフリをして生きていったほうがいいと思う。障害者なんかに、ならないほうがいい。

そりゃ、傍目から見たら、障害者は気楽そうに見えるかもしれないけど……私の見た範囲では、尊厳や自由が、あまりないように思える。希望にあふれた障害者というのも、なかにはいるんだろうけど……私は、そうはなれそうにはない。どうしても、人生に対する絶望や諦念みたいなものがつきまとうし、未来が見えない。

でも、非健常者のままでも、未来は見えないかもしれない……どうしたらいいのか、私にはわからない。

残念だけど、現代社会は、健常者が生きやすいよう、健常者のために最適化された社会なんだよな。障害者は、かろうじて福祉制度のなかで、健常者のオコボレにあずかって生きていられる。でも、健常者でも障害者でもない非健常者は、どうやって生きていったらいいのだろうか。ロールモデルもないし、まったくわからない。

私も現時点では「無職のひきこもり」で、間違いなく福祉の対象なのだが、せっかく手に入れた「障害者カード」を、一切活用できていない。

障害者福祉・障害者雇用の制度を否定する気はまったくないが、私個人としては、あまり制度の世話にはなりたくない。障害者として「健常者様から与えられた福祉の枠のなかでしか生きられない」なんて、すごくイヤだ。

イヤだけど、だとしたら私は、どうすればいいんだろう? もう、健常者ではない。かといって、障害者であることも、受け入れられない。結局また「非健常者」というデラシネになって、これから先どう生きていったらいいのか、やはりまったくわからない。

これからの私の人生、このまま少しずつ下降を続けていって、いずれ底をついて、死ぬんだと思う。そういう不吉な予感がある。そうはなりたくないから、常に前を見て、上昇志向を持って生活しなきゃいけないと思っているが……私は、もともとの能力が高くないし、口だけ達者で行動が伴わないから、いつも眼高手低になっている。我ながらみっともない。

そもそも、新卒の会社で双極性障害になって休職することを選択したとき、はじめて自殺未遂をしたとき、新卒の会社を退職したとき、障害者手帳をとって「障害者」になったとき、私の人生は、常にミジメな逃避と下降の連続だったんじゃないかとも思う。「どこかで踏ん張っていれば」という後悔が、今も捨てきれない。

非健常者の友人たちにおいては、どうか上昇志向を持ち続けてほしいと思う。上昇志向って、どうすれば上昇なのかはよくわからないけど……たとえば出世とか、マイホームとか、海外旅行とか、メイクマネーとか、ビッグサクセスとか……そういう健常者じみた、有り体で俗っぽい幸せを、あきらめずに目指してみるとか……。

いや、どうしたらいいのか、全然わからない。が、ひとつ確実に言えるのが、非健常者の目指すべきところは「障害者」ではないということ。たとえ皮肉やネタであっても、障害者をうらやんだり、障害者に憧れたりは、すべきでないと思う。障害者を見下してバカにすることは、よくないことだが、障害者を見上げて憧れるようになったら、なおのこと最悪だ。

SNSの非健常者たち、もう5年以上ずっと見ている、親しみを感じているし、みんなには救われてほしい、幸せになってほしいと思っている。

そのために、私みたく安易に障害者へ「下降する」のではなく、なんとかそのラインを越えずに踏ん張ってほしい。別に、健常者にはならなくてもいいから、少しでも「上昇」を目指して、非健常者として、楽しく生きていく道を見つけてほしいと思う。

私は、安易に下降した結果、人生が取り返しのつかないことになってしまった。いや、私は私の人生を、まだなにもあきらめていない。これからでも遅くない、なにもかもを取り返したいと思っている。しかし、今までに大変な遠回り、時間のムダ、徒労を繰り返してきたのは事実だ。

どうか私の二の轍を踏まないように、つらくても、そのまま耐えて、生きていってほしいと思う。「つらくても生きてさえいれば、いつか必ずいいことがある」なんてことは、とても言えないけれど……安易に下降せず、下を見るのではなく上を見て、あきらめずに生きていってほしい。

私は、傍目から見たらお気楽障害者だけど、まだ障害者として生きる覚悟ができていないし、今のところ毎日が不安でしょうがない。明日が来るのが怖いし、将来が見えないのが怖い。非健常者のみんなも、おなじ思いなのではないかと思う。私の境遇自体は、比較的恵まれているのだろうが、しょせん他人から与えられているものばかりなので、強いミジメさを感じる。

精神論になってしまう、なんの根拠もないけど、下降志向はやめよう。毎日不安なりに前を向いて、上昇志向で生きていきたいと思う。悲惨な毎日なのに「前向きに頑張ろう」なんて言い出すと、気が狂いそうだし、息が詰まるし、頭が痛いが……。

それでも、このミジメな気持ちのまま、一生を過ごすのは嫌だ。これ以上ミジメな境遇に身をやつすのもイヤだ。一刻も早く、このミジメな境遇から抜け出したいと思う。どうしたらいいかは、全然わからない。でも、なんとかしたいし、なんとかやっていくしかない。「いつかなんとかなる」という、浅ましい希望が捨てきれない。

インターネットだけのつながりだし、それぞれの環境や立場は違うけど、私は非健常者のみんなと一緒に頑張っていけたらいい。みんなの人生が、並行してよくなっていったらいいと思っている。生きづらい、とても生きづらいが、とにかく上を向いて生きていこうと思う。

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