アルコール依存症と祈り

02.メンタルヘルスのこと
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突然だが、私はアルコール依存症である。医師の診断こそ受けてはいないが、最近まで、アルコールによって生活が破綻していた。今でこそ、お酒はまったく飲んでいないが、アルコール依存症が寛解することはない。死ぬまで酒をやめ続けなければならない。

10年ほど前に、双極性障害(躁うつ病)という精障害になった。以来ずっと、薬物療法を続けている。一般的に、向精神薬とアルコールの併用は禁忌とされているが、私には強い飲酒の習慣があり、長いあいだ、お酒と向精神薬をチャンポンしてきた。

そのせいか、2年前に体調を崩し、勤めていた会社をやめた。そのあとも、お酒をやめられず、1年半ほど前までは、ほぼ毎日、ゲロを吐くまで飲酒を続けていた。

当然、生活はメチャクチャになる。夕方に目を覚まし居酒屋へ行き、夜中まで酒を飲み、泥酔して、また夕方まで眠る日々。よく覚えていないので、詳しくは書けないが、人に迷惑をかけたことも、しばしばある。

口座のお金はお酒になって溶けていき、飲み友達からも距離を置かれていく。「このままではまずい」そう思って、酒を控えることに決めた。

しばらくは、自力で節酒しようと考えていた。おおむね上手くいっていたが、日々ガマンの連続で、ストレスが溜まる。

機会飲酒を心がけていたが、たまに酒の席に出ると、ここぞとばかりに飲んでしまう。

「いつかまたひどく飲んでしまう」そんな危機感から、とある自助会に参加した。アルコール依存症患者同士が集まって、アルコールに対する向き合い方を話す、それだけの会である。

たまたま、近所の公民館で会が開催されていて、ワラにもすがる思いで、会に飛び込んでみた。

自助会では、主にお酒にまつわるエピソードを話す。私も参加するなかで、さまざまなテーマにそって、お酒にまつわるエピソード、ときには楽しい話を、ときには失敗した話をした。

自助会に参加する前は、アルコールに対して、抽象的な危機感しか持っていなかった。私は被害者で、アルコールという加害者が、私の人生を壊しにきている。そんなことを考えていた。

しかし、自助会に参加して、お酒にまつわるエピソードを、何度も繰り返し話し、聞くうちに、加害者はアルコールではなく私自身で、私が私の人生を壊しているのだと気づいた。

同時に、アルコールにまつわる問題は、私の手でコントロールできるものではないということも知った。

それまでは、「3杯までならOK」「月に1回くらいならOK」というマイルールをもうけて、節酒をしていた。

しかし、自助会に参加して、自分のアルコール履歴を振り返るなかで、「3杯だけ」「月1だけ」という条件を守ることの不可能さを自覚した。

自分で言うのもなんだが、私は自分に甘い。意志が弱い。節酒していた期間も、「3杯だけ」で済んだ試しがないし、「月1だけ」のはずが、思い返せば毎週飲みに行っていた。

それでも「以前と比べれば酒量は激減したから、いいだろう」と、自分を納得させていた。

自助会のエピソード、詳しくは書けないが、パンチのきいたものが多い。「このまま飲酒を続ければ、自分もいつかこうなる」という危機感を持った。非常に失礼な話だが、反面教師を見たような気持ちになって、断酒を決意した。

それ以来、アルコールを一滴も口にしていない。今でも、ときおり飲酒欲求を感じるが、それよりもアルコールに対する恐怖、人生が壊れていく恐怖が勝る。

アルコール依存症治療のなかに「底つき体験」という言葉がある。簡単に言うと、飲酒、それにともなう失敗で「もうお酒を飲んではいる場合ではない」という状態になることである。たとえば破産、逮捕、失職、離婚など。

私の場合、アルコールが一因となって失職したし、アルコールに依存していた時期には、妻との関係が極めて険悪になっていた。

自身の「底つき体験」は、すべて自助会に参加することによって自覚した。それまでは、ハッキリと気づいていなかった。自覚した瞬間は、背筋がゾッとした。あんな体験は、二度としたくない。

自助会で出会った方から「何日、何ヶ月、何年断酒しているか、その期間に意味はない。死ぬまで一生、一日の断酒を続けるだけだよ」という話をされた。それを聞いて、「祈りに似ている」と思った。

およそ、すべてのアルコール依存症自助会がそうだと思うが、依存症治療とは、まず「自分は、アルコールに対して無力であること」を認めることから始まる。

そのうえで、自分よりも大きな存在、たとえば神などに、自らの意志と、生活を委ねることで、アルコールへの依存から脱却することを目指す。

私は、クリスチャンである。もう5、6年ほど、教会と聖書に親しんでいて、昨年洗礼を受けた。

アルコール依存症であることと、クリスチャンであることとは、一切関係はないが、アルコール依存症であることを自覚してから、祈りの意味が変わってきた。

アルコール依存症に、寛解はない。「何日、何ヶ月、何年」断酒を続けようと、一滴飲んだ瞬間、そこでいったんすべてが終わる。

そうならないよう、私であれば神に、我が身を委ねる。毎朝「今日もアルコールを飲みませんよう」と祈り、毎晩「今日もアルコールを飲まずに済みました」と感謝する。

断酒は、祈りの連続だ。日々の信仰とおなじで、死ぬまで終わりはない。断酒を始めてからはじめて、祈ること、感謝することの意味、神に我が身を委ねることの意味が理解できた気がする。

アルコール依存症による断酒生活と、キリスト教の信仰生活は似ている。信じる神は人それぞれだろうが、大きな存在に祈り、感謝しながら、毎日を暮らしている。

アルコール、薬物、ギャンブルなど、依存症のかたちは様々だが、どの依存症患者にも共通して言えることは「自分の人生を生きたい」ということだと思う。

私であれば、アルコールが原因で、自分の人生が、自分の手もとを離れてしまった。自分の人生のコントロールを、失ってしまった。それを取り戻したいと祈る。「酒をやめたい」「ギャンブルをやめたい」という即物的な祈りではなく、「より善く生きたい」と祈る。

いままでの私にとって、アルコールは欠点であり、アルコールによっていくつもの過ちを犯していた。自助会で、さまざまな告白をするなかで、幸いなことにそれに気づくことができた。

これからは、神の声を聴き、欠点を認め、罪を償い、そして毎日祈り、感謝しながら生きていく。

アルコールは、私にとっての悪友、過ちの原因であることは間違いないが、同時に信仰の在り方を教えてくれた、師のような存在でもあった。

そして、アルコール依存症になってからはじめて、祈りと感謝の意味について考えることができた。何度も言うが、アルコール依存症に寛解はない。寛解はないからこそ、これからも、祈りと感謝の連続を生きていけるのかもしれない。

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