実家というか、生家が賃貸住宅だった。
いまでも思い出せる、いかにも「昭和!」という感じの、木造オンボロ長屋(住んでいたのは平成年間だが)。
壁はトタン張り、屋根もトタンぶきで、風が吹いたら吹っ飛んでいきそうな造りだった。
オシャレな言い方をすれば、間取りは3K。トイレは汲み取り。当時は子どもだったから、特になにも思わなかったが、いまアソコに住めと言われると、かなり厳しい。
我が家は、3軒並びの真ん中。両どなりの家の子たちは、みんなだいたい同学年で、よく一緒に遊んでいた。
家賃は、かなり安かったらしい。
そのためか、貯金ははかどったのだろう。両どなりの家も、そしてうちの両親も、それぞれ土地を買って家を建て、長屋を出ていった。
はじめに、右どなりの家族が家を建てて、長屋を出ていった。そのあと、空いた部屋に、40過ぎのおじさんが入ってきた。
おじさんは、日がな縁側で日向ぼっこをしたり、近所の野良猫にエサをやったりしていた。親からは「近づくな」と言われていたが、猫が好きなので、多分いい人だったんだろうと思う。
左どなりの家族も家を建てて、長屋を出ていった。その後、私が小学校を卒業すると同時に、うちの両親も家を建て、長屋を出た。
うちの両親は、長屋からは遠く離れた土地に家を建てた。それからは、長屋へ行く用事もなく、いつの間にか記憶の彼方へ消えていた。
大学3年生になって、就職活動の指南本を読んでいたら、あるページに「自分のルーツを探ろう!」と書いてあった。
「そういえば、ずっと生家へ行ってないな」そう思い、約8年ぶりに、自分が生まれた長屋を見に行くことにした。
大学生のときは、家を出て下宿しており、生家があった場所へは、電車で1時間くらいで行けた。
行きの電車のなかで、当時のことを思い出す。
長屋は3軒連なっていて、よく家の前で遊んだこと。
目の前には大きな畑があって、そこへ勝手にヒマワリを植えて叱られたこと。
近所の資材置き場に秘密基地を作って叱られたこと。
左どなりの家の子と、殴り合いのケンカをしたこと。
右どなりの家の子のことが、好きだったこと。
駅を出て、商店街を歩く。
故郷の街の景色は、8年前とあまり変わっていなかった。
子供のころによく行ったおもちゃ屋さん。
同級生の実家の化粧品店。
高校生がたむろしていた喫茶店。
父を迎えに行った居酒屋。
どれも8年前のままだった。
商店街を抜け、川沿いの道を歩き、国道をわたる。
少年野球をやっていたとき、よく集会に使っていたファミレスも、変わらずそこにあった。
そのまま、小学校へ向かう。
むかしからの学校のシンボルだった大銀杏、8年前は四方八方に枝を伸ばしていたが、事故防止という理由でほとんどの枝を切られて、いまはこじんまりとしていた。
小学校を通り抜ける。
中庭には、二宮金次郎の立像がある。友人たちとつるんで「学校の七不思議」をでっち上げ、「金次郎像は夜中に動く」というウワサを流したことを思い出した。
小学校脇にあった駄菓子屋は、もう閉店していた。
この駄菓子屋は、偏屈で口うるさいババアがやっていたが、あのババアも歳をとるのだなと思った。
それから、目的地だった、生家へたどり着いた。
長屋はもうなくなっていて、いまは、真新しいマンションが建っていた。
長屋の前にあった広い畑も、すべてマンションになっていた。
私の「ルーツをたどる旅」は、ここで終わってしまった。
本当は、むかしの友人の家とか、みんなで遊んだ公園とか、野球の試合をした運動場とか、この街で行きたい場所はたくさんあった。
しかし、いちばんのルーツ、生家がなくなってしまっていたことで、この街への興味が、まったくなくなってしまった。
時刻は、夕方に入ろうとしているところだった。
当時からオンボロ長屋だったから、まあ、当然だよな。そう思いつつ、やっぱり寂しかった。
来た道とおなじ道で、駅まで帰った。
来るときはあんなに鮮やかだった景色が、なんだか死人の肌の色のように見えた。
帰り際、駅前の古い居酒屋で、少しだけ酒を飲んだ。
父とおなじくらいの歳であろう店主に「ここで生まれたんです」と言ったら、少しだけ昔話が弾んだ。
だけど、まったく知らない街の話のように聞こえた。
そして、私は就活に失敗した。
別に、長屋をつぶした大家のことを恨むわけではない。私が大家でも、おなじことをすると思う。
長屋で私を生んだ親を恨むわけでもない。
両親は、立派な一戸建てを建てているし、私の実家はそこだと言えなくもない。
ただ、私が生まれたあの長屋には、もう帰ることができない。
友人たちと遊んだ縁側の部屋。
弟とケンカした子ども部屋。
こたつしか置けないせまいリビング。
母が隠れて泣いていたキッチン。
父と私と弟で無理やり入った小さな風呂。
何度か落ちかけたボットン便所。
私のルーツのオンボロ長屋は、もうない。