失うことと、あきらめること

03.精神障害のこと
この記事は約8分で読めます。

先日、「涙活」というものに参加してきた。定期的に情動の涙を流すことで、普段のストレスを解消するための活動である。

失恋や死別など、つらい思いをしたとき「大泣きしたらスッキリした」という経験は、誰しもあるのではないだろうか。私は、何度もある。情動の涙を流すことは、ストレス解消になる。科学的根拠もあるらしい。

涙活、具体的になにをするのか。泣ける動画を見て泣く、これだけ。その日は、会場で5~6分程度の長さの動画を5本見せられ「各自泣いてくださいね」という形式だった。私は、昔から涙もろい。その日も、2本目の動画で、簡単に泣いた。

その動画は、タイで放映された携帯端末のCMだった。若いエンジニアが事故で片腕を失い、同僚が携帯端末を使って彼を励ます、という内容の動画。私は、どこで泣いたか。エンジニアと同僚の、美しい友情に涙したわけではない。エンジニアが事故にあい片腕を失う、喪失のシーンで泣いた。

私は、精神障害者である。双極性障害という精神障害を持っている。最近は、発達障害も疑われている。

私は、後天的な障害者である。双極性障害を持ったのは、およそ10年前、新卒で入った会社に勤めていたころ。それまでは、まったくの健常者だった。発達障害の症状が顕著になってきたのも、この半年程度と、最近のことである。

私は、事故にあって片腕を失ったエンジニアに同情し、彼の心情や心境に共感して、泣いてしまった。

あまり書いてなかったが、私は、先天的な身体障害も持っている。具体的には、片腕の筋力が非常に弱く、神経にも異常があるため、上手く動かせない。長年リハビリしてきて、今はだいぶマシになった。それでも、まだ人並みには動かせない。

日常生活に、不便はない。なぜなら、生まれたときからこうだったから。はじめから腕が動かないなら、動かないなりに、生活や動作は最適化されていく。私は「正常に動く腕」を知らないから、腕が正常に動かなくても気にならないし、苦にならない。半身不随みたいに、深刻な問題じゃない。たかだか片腕が動きづらいだけだし。

野球や水泳など、腕を使うスポーツをするときなどは、さすがに苦労する。しかし、人生においてスポーツをする必要はないので、深刻に困ることはない。人生で、スポーツをあきらめればいいだけの話である。

先天的な障害と、後天的な障害とは、絶対に違う。先天的な障害と、後天的な障害との違いはなにか。後天的な障害には、必ず「喪失」の体験がつきまとう。

私であれば、先天的な障害である片腕については、喪失の体験はない。なぜなら、はじめから「持っていなかった」から。もちろん、動かない片腕にまつわる挫折は、いくつも体験してきた。スポーツをしたくても、できない。人並みに動かない片腕を、バカにされる。そんなことは、何度もあった。そのたびに悔しい思いをしてきたが、それは生まれたときからずっとそうで、なにかを「失った」わけではない。

それに対して、後天的な障害である双極性障害については、喪失の体験をした。「持っていたもの」を、ある日突然失った。これが、尋常じゃなくつらかった。

エンジニアの彼は、片腕を失った。私が失ったものは、なんだろう。精神障害は、身体障害と違って「喪失」が明らかに見えない。それでも、私は確実になにかを失ったと感じている。

外見は、まったく変わらない。しかし、それまでは当たり前にできたことが、あるときから、まったくできなくなる。能力が欠落する感覚。

たとえば、双極性障害になってからは「朝起きて夜寝る」こんな基本的なことすら困難になった。毎日おなじテンションで過ごすこと、おなじパフォーマンスを発揮することも、むずかしい。

発達障害にしても、薬を飲んでいないと、視覚過敏・聴覚過敏の情報過多で、頭がパンクしそうになる。目に入る光、耳に入る音すべてが、情報として頭に流れ込んでくる。それで、会話などのコミュニケーションはおろか、ただそこにいることすらむずかしくなる。こんなこと、今まではなかった。

平日は会社で仕事をして、休日は遊びに出かけて……という何気ない日常が、障害を持った瞬間に、すべて失われてしまった。今は、毎日服薬を続けないと、日々の生活すらままならなくなっている。

障害を持った以後も、障害を持つ以前とおなじように暮らそうとして、そしてつまづく。そのたびに、ひどく傷ついたり、起き上がれなくなったり、今までずっとその繰り返しだった。

双極性障害とは、気分の上下の波が異常に大きくなる障害である。健常な人なら、いいことがあれば元気になり、悪いことがあれば落ち込んで、みたいな感じで、意味もなくアガったりサガッたりすることはないと思う。

双極性障害の場合は、周期的に、病的な振れ幅で気分が変調する。ストレスに反応して気分が切り替わるときもあれば、一定の周期で勝手に気分が切り替わることもある。躁状態になれば、活動的・外交的・攻撃的になったりする。うつ状態になれば、落ち込んでふさぎ込んだりする。

医者じゃないから、病気について詳しくは語れない。あくまで私の体験になるが、私の場合、躁状態が終わったあとのうつ状態が、特につらい。

躁状態におちいったときは、頭が全能感に支配されて「双極性障害を克服できた!」と思い込むことも多い。躁状態のときは、失ったものを、一時的に「取り返した」ような錯覚に襲われる。

そのあと、うつ状態になると、単純なうつのつらさに加えて「障害を克服できたなんて嘘だった!」という、裏切られたような気持ちになる。また「やはり障害からは逃れられない!」という絶望感に襲われる。躁状態とうつ状態を行き来することで、双極性障害によって自分が失ってしまったもののコントラストがいっそう鮮やかになって、強烈なつらさを感じる。

最近ようやく「できなくなったこと」「失ったもの」について、多少理解できるようになってきたけど、 そしたら今度は「なんで私がこんな目にあわなければならないのか」みたいな思いが強くなってきて、つらさの質が変わってきた。

いま私は仕事をしていないんだけど、去年までは、都内の会社に勤めていた。前の会社を退職しなければならなかった最大の理由は、双極性障害である。3年ほどは体調も良好で、仕事も順調だったから、私が「できなくなったこと」「失ったもの」について、頭のなかから抜け落ちてしまっていた。そこへ、キツめの不意打ちを食らった。

双極性障害の症状によって、会社員としてのセルフコントロールができなくなり、いったん生活から仕事を切り離さざるをえなくなった。しばらくはゆっくりと療養して、最近ようやく「なんとかしないと」という気持ちになってきた。なので、これからまたどこかに就職しようと思うんだけど、「そもそも、会社勤めは困難なのでは?」という不安・疑念が捨てきれない。

「できなくなったこと」がよく見えてくると、世界が本当に狭まってしまったのだということを思い知らされて、これもすごくつらい。障害に振り回されて、自己管理が困難だから、就職にも今ひとつ踏み切れない。それに、経験上3~4年周期で、半年以上の期間にわたって、深刻なうつ状態におちいり、体調が劇的に悪化する。これには抗えない。

細かい点で言えば、精神科へ通って、双極性障害の確定診断を得てしまっているから、これから先の人生、もう生命保険に入れない。ということは、住宅ローンも組めないから、マイホームを持つことも叶わない。結婚はしてるけど、双極性障害は遺伝する可能性もあるから、子供は持てない。

こういう言い方をすると、感じが悪いかもしれないけど、そこそこの大学を出て、新卒で大きな会社に入って、社内での覚えもめでたく、人生は順風満帆だった。入社したての頃は、「二八歳で結婚、三〇歳で第一子、三二歳で第二子、三五歳でマイホーム購入」みたいな人生の青写真を描いていたが、双極性障害を持ったことで、すべて台無しになってしまった。

それから何年も経って、上京したり、再就職したり、結婚したりと、いろんなイベントがあって、今はおおむね幸せである。ただ、この幸せは、偶然得られたもの、砂上の楼閣に過ぎないと思っている。だって私は、双極性障害の前には、まったくの無力だから。昨年も、双極性障害が再発し、会社を退職せざるをえなくなって、今後の生活の目処は立っていない。双極性障害が、私のかりそめの幸福を壊しにきた、そんな予感がする。

障害を持つ「喪失の体験」のあとには、必ず「あきらめる作業」がつきまとう。「喪失の体験」は、単になにかを失うことではない。障害を持って、心身の機能を失うことは、たくさんの未来・将来・希望といったものを失うこととおなじだ。

失われた可能性は、本来手に入れられるはずだったもの、しかし二度と手に入らないものとして、目の前に立ちはだかる。私たち障害者は、それらと惜別しつつ、すべてをあきらめなければならない。

たとえば、身体に障害を持っていながら、オリンピックに出場することはほぼ不可能だろう。精神に重篤な障害を持っていたら、レーシングドライバーにはなれない。片腕のプロ野球選手、現役にはいない。ろうあの音楽家は、ごく稀だろう。

障害者でも、夢を叶えている人はたくさんいる。もちろん、私もそんなことは知っている。障害者の努力を否定するつもりもなければ、可能性がゼロだと言いたいわけでもない。ただ、「夢を叶えた障害者」なんていうのは、本当にごく一部の例外で、多くの障害者の生きる道は、とてつもなく狭い。可能性を追求するために生きられる人は、多くない。

今まで、長い時間をかけて、いろんなものをあきらめてきた。あきらめることは、失うこととおなじで、自分の可能性を閉ざすことだ。いや、失うことは不可抗力だけど、あきらめることは自分の意志で行わなければならないから、もしかしたら「失うこと」より「あきらめること」のほうがつらいかもしれない。

「私には、もう無理なんだ」自分にそう言い聞かせて、自分の可能性をゴミ箱に捨てる作業を繰り返している。とてもつらい。それに、心のどこかで「本当に無理なのか?」「努力してみろよ」という声が聞こえる。「もしかしたらできるんじゃないか」そんなさもしい希望が捨てきれなくて、いっそうつらい。

私にとって、可能性は重荷だ。早くすべて捨てて、楽になりたい。ただ、可能性を自ら捨てきった人生に、果たして生きる意味はあるのかという思いもある。「すべてあきらめたい」と思う半面、「なにもあきらめたくない」とも思っている。

ひとつ言えるのが、障害があろうがなかろうが、「私は、生きていかなければならない」ということである。過去には自殺を図ったり、最近も希死念慮に襲われることは多かったが、今はこれからも、ずっと生きていたい。生きていくためには、なんらか稼ぎが必要だ。今のところ、就職しか思いつかない。むずかしいかもしれないけど、できないなら、できないなりにやるしかない。

すべての可能性をつかむ必要はない。そんなにたくさんの可能性を背負っていくことはできない。それに、今は社会生活の能力の大部分を失ってしまったから、そんなにたくさんの可能性を叶えられる力がない。自分の生活にとって必要な可能性だけを、手もとに残しておこう。あとは、ただ慎ましく生きていく道を探している。

タイトルとURLをコピーしました