文章組手第5回「引っ越し」

10.文章組手
この記事は約9分で読めます。

父が転勤族だったのと、自分も転勤が多かったせいで、過去に何度も引っ越しをした。子どものころ、記憶がハッキリする前に、少なくとも2回。おなじく子供のころ、ハッキリと覚えているので3回、引っ越しをしている。

高校卒業後は、進学や就職、転勤や転職などで7回。人生で、最低12回は引っ越しをしている。それぞれの距離はまちまちだが、書き出してみると、大した回数だと思う。

大学進学以降の引っ越しは、ほとんどが自分の意志による、ステップアップのためのもので、ポジティブな思い出が多い。新天地で新しい暮らしが始まる、環境を刷新して再スタート……大人になってからの引っ越しの先には、常に希望があった。

逆に、子どものころの引っ越しは、すべて自分の意志ではない、不本意に強制されるもので、ネガティブな思い出のものが多い。見知らぬ土地での暮らし、新しい環境に適応できるだろうか……子供の頃の引っ越しの先には、常に不安があった。

とりわけ思い出深いのが、小学校を卒業するときの引っ越し。この小学校には、小3から卒業までの、4年間にわたって在学していた。

はじめに入学した小学校では、私は内気で、パッとしない児童だった。小3で、べつの小学校へ転校したころから、学力が顕著に伸びはじめた。多分、それが自信になったのだろう、毎年いろいろなことへ、積極的に取り組むようになっていた。

スポーツ少年団で野球を始めたり、習いごとを始めたり、クラブ活動や学校行事に打ち込んだり……小学生ながら、毎日が充実していた記憶がある。

友人も、たくさんできた。なかでも、スポーツ少年団の友人たちとは、家族ぐるみの付き合いで、互いの家へ泊まりに行ったり、食事へ行ったり、旅行をしたり、スポーツ観戦へ行ったり、たくさんの思い出を作っていた。

私たちは、みんなテレビゲームが好きだった。野球少年のくせに、家に集まっては、テレビゲームばかりしていた。しかも、なぜかみんなで集まって、ドラクエやFFのようなRPGをしていた。今思うと、意味がわからない。

私は長男だったから、兄がいる友人の家に出かけては、一緒に遊んでもらうのが好きだった。友人宅のガレージを漁って、オモチャになりそうな道具を探すのは、とても楽しかった。除草用の火炎放射器で遊んだときは、本気で怒られたが……。

ミニ四駆やら、ビーダマンやら、人生ゲームやら、カードゲームやら……いろんな遊びをした。近所の資材置き場で勝手に秘密基地を作って、土地所有者のオジサンからひどく怒られたりもした。ローラースケートでは、転倒して骨折した。みんなで「学校の七不思議」をでっち上げて、流行らせたりした。家のとなりの畑に、勝手にひまわりを植えて、めちゃくちゃ叱られたりした。

ハムスターを飼うのも流行った。ハムスターは、すぐ死ぬ。自分のハムスターが死んだときはもちろん、友人のハムスターが死んだときも、みんなで泣いてお葬式を上げた。寺の息子の友人が、何回か念仏を上げてくれた。

友人宅で犬を飼い始めたときは、熱かった。かわいい子犬だったけど、噛まれるとしっかり痛い。私たちのなかでは、犬がいちばん大事だったから、犬に噛まれた奴は「ワンちゃんに噛まれるようなことをしたのか?」と、被告人扱いされていた。

スポ少の友人たちとの思い出、私のなかで相当美化されているのだろうが、悪い思い出がなにもない。クラスで虐められていたとき、いつも庇ってくれたのは、スポ少の友人たちだった。

野球の練習をしたがらない私を、ムリヤリ練習に連れ出してくれたり、練習したがらない私に向かって、激怒する父をなだめてくれたのも、スポ少の友人たちだった。

私が将棋にハマって「学校に将棋クラブを作りたい!」と思いついたときも、なぜかスポ少の友人たちが手助けしてくれた。他にも、私が「これやりたい!」と言い出したときには、みんないつも、それに付き合ってくれた。

ケンカをした記憶が、一切ない。まあ、多分覚えていないだけなんだろうけど。きれいで優しい思い出しか残っていない。

豊かな人間関係だった。こう言うと、いささか利己的に聞こえるかもしれないが、私が少年時代を送るうえで、少年の私が成長していくうえで、必要なものは、すべて揃っていたような気がする。毎日なにかを感じて、毎日なにかを学んでいける環境だった。

仲のいい友人たちは、みんな家も近かったから、みんなでおなじ中学校へ進学して、またみんなで遊んで、野球をして、勉強ができる、そう思っていた。

小学生の想像力だから、それほど先のことまでは考えられなかったけど、でもこの先も、ずっと一緒にいたいと思っていたし、ずっと一緒にいられると思っていた。きっと、大人になってからもずっと。

そう思っていたころ、家庭の都合で、小学校卒業・中学校進学とともに、引っ越しをすることになった。

心底イヤだった。小学校時代の友人たちと離れるのは、イヤだった。何度目かの引っ越しかわからない、また人間関係がリセットされるのがイヤだった。

引っ越す先の学校は、田舎の学校で、一学年一クラスしかない。そんな濃密な人間関係に、今さら馴染めるとも思えなかった。しかし、もう決まってしまったことだ。家庭の事情は、子どもの意見でくつがえるものでもない。

友人たちは、みな別れを惜しんでくれて「転校しても友達だよ」と言ってくれたし、親からも「転校してもまた会えるよ」と言われていたが、子供心に「これがお別れだろうな」という予感がしていた。

おなじ岐阜県内の引っ越しだったが、岐阜県はとても広い。引っ越す前の街と、引っ越す先の街とでは、地図上で150キロ以上離れている。中学生が、おいそれと訪ねられる距離ではない。だいたいにおいて、公共交通機関の便が悪いから、車を運転できない子どもは、自由に移動できない。子どものころの私とって、岐阜県は広すぎた。

当時は、携帯電話とかもなかったから、気楽に連絡をする手段もない。固定電話はあったが、なんとなく連絡を取らないでいるうちに、あっという間に疎遠になっていってしまった。

新しい中学校の人間関係は……現在でこそ、ちゃんとした付き合いができているが、当時は散々だった。虐め、嘲笑、悪質なからかいは当たり前だったし、暴力も横行していた。私が入ったクラスにしても、授業が成立しないほど荒れていて、当時流行りだった「学級崩壊」の様相を呈していた。

当時の虐めは、現在ではなかったこと、あるいは当然な人間関係の一部になっている。こういう、陰湿な田舎の人間関係のなかで生活していると、自分の倫理観まで狂ってくるような気がしてくる。

転校先の中学校、思春期という時期を考えると、まったくいい環境ではなかった。虐めや暴力のターゲットにならないこと、日々サバイブしていくことにエネルギーを割かれていた。私みたいなナードは、ロクに人格を育てることができなかった。実際、その後の高校生活、そしてそれ以降の人生を伸び伸びと生きている人というのは、虐めの加害者、あるいはヒエラルキー上位の人が多いような気がする。

私には、弟がいる。弟も、一緒に田舎の小学校へ転校したのだが、転校先がこんな環境だったので馴染めず、その頃から家族とも不和になっていき、そのまま今に至る。今は、どこでなにをしているのかもわからない。あのとき、引っ越しなんかしなければよかったのにと、今でも思う。

中学時代、一度だけ、昔の友人たちが進学した中学校の野球部と、私が転校した中学校の野球部で、練習試合をしたことがある。

試合の結果はよく覚えていない、多分負けたのだろうが、それよりも、数年ぶりに会う友人たちが、私の知らない姿、私の知らない顔つきになっていて、とても寂しく感じたことが、印象に残っている。みんな、成長期を経ているのだから当然だし、きっと向こうから見た私の姿も、おなじように映っていたのだろう。

昔のように話しかけようかと思ったけど、昔の呼び名で呼んでいいのだろうか、バカみたいに思われないだろうかと、どこか気恥ずかしくなってしまって、結局最後まで声をかけられなかった。

試合が終わって、帰りのバスへ乗り込んでいくみんなに手を振り、あれが誰、あれは誰と、ひとりひとりを確かめていくことしかできなかった。

高校へ進学してからしばらくして、流行り始めた携帯電話を買ってもらった。小学校の友人とも連絡を取って、メルアドなどを交換したが、今さら特に話すこともなかった。

お互いにお互いの生活があり、人間関係があり、そしてそれは、もうきれいに別れてしまっているのだ。彼らのほうにしたって、それぞれ進路もバラバラだし、これからの生き方も、バラバラになっていくんだろう。

きっと私が知っている、あのころの友人たちはもういないし、あのころの人間関係は、もう存在しない。私だけが、取り残された時間のなかにいるのだと思うと、それ以上は、なんの詮索もしたくなくなった。

いちばん仲のよかった友人と、他愛もないメールを数回やり取りしたあと、機種変更かなにかのタイミングで連絡先を紛失して、それきり音信不通になった。

大学4年生の頃、就職活動に迷い悩んで、一度だけ、小学生のころ住んでいた街を訪れたことがある。駅に着くと、駅舎は新しくなっていた。駅前は、これから再開発されるのだろう。私にもなんとなく見覚えのある古い建物がちらほら、そして、歯抜けのように更地が目立つ。

そのまま、駅前の商店街をまっすぐ歩いていくと、新しめのテナントの合間に、小学生の頃には目に留まらなかっただろう、古めかしい喫茶店や飲食店、小売店が建ち並んでいた。そして、商店街の端では、小学生のころよく通った玩具店が、今でも営業しており、あいかわらずプラモなどを売っていた。

そこから国道を渡って、思い出の小学校を見に行った。学校のシンボルであった大樹は、ほとんどの枝が伐り取られていて、根本のあたりに「安全上の理由で伐採しました」と書かれた札が立ててあった。私の在校中から、事故が起きたりしていたから、まあそうだよなという感じだった。

職員室へ挨拶に行ったが、知っている教員は、当然一人もいなかった。卒業生であることを告げると、若い男性教員が、校舎内を案内してくれた。校舎内は、記憶に残る昔のままだった。渡り廊下の蛍光灯に、サッカーボールをぶつけて割ったことを思い出した。

小学校を出て、最後に、私の家族が昔住んでいた、私たちの溜まり場だった長屋を見に行った。かつての住居だった、木造の長屋はもう存在せず、今は新しく鉄筋コンクリートのマンションが建っていた。そういえば、あの長屋には、独身のおじさんがひとりで暮らしていたけど、あの人はどこへ行ったのだろうか。急に思い出した。

そのあとは、もうどこへ行く気にもならず、駅前の居酒屋で軽く飲んで、再び電車に乗って、下宿へ帰った。就活の自己分析のため、自分のルーツを知りたいと思って来たのだが、かえって喪失感を増すだけだった。関係ないが、就活には失敗した。

そんなこんなで、小学校の友人たちとは、完全に関係が切れてしまった。今では、ときおり親伝いに近況を聞くくらいで、私から連絡を取ったりはしないし、向こうから連絡も来ないし、そもそも連絡先も知らない。たまに、フェイスブックでそれらしい人を見かけるくらいである。

あと、小学生時代のスポ少のコミュニティも、人間関係のトラブルやらなんやらで、すっかりバラバラになってしまったと聞いた。時間が経てば、いろいろあるから、これは致し方ない。

小学生のころの人間関係、本当に楽しい思い出ばかりだったし、あのまま中学、高校時代を送っていたらどうなっていただろうかと、今でも考えてしまう。みんな、つつがなくやっているだろうか。きっと私が、美しい時期しか思い出せないからだろうけど、今でも憧れてしまう。

大人になってからも、時々「また会えたらな」と思う。けど、あのころとは、なにもかもが変わってしまっていて、きっと会ってもガッカリするだけなんだろう。それぞれの人生を歩むなかで、必然的な別れもあっただろう。私が知らないだけで、もう二度と元には戻れない決別も、あったかもしれない。

小学生のころの友人たちは、きっとみな、それぞれの現在を生きている。美しい憧憬だけを抱いたまま、過去に取り残されているのは、私だけだ。

私は私で、今の人生、今の時間を生きている。彼らの人生と、私の人生が交わることは、多分もうないのだろう。

子供はいつか大人になる。あの引っ越しで失ってしまったものは、もう二度と元には戻らない。

タイトルとURLをコピーしました