障害は「ギフト」か

03.精神障害のこと
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私は、精神障害者である。10年くらい前に双極性障害(躁うつ病)という精神障害になって、5年くらい前に精神障害者保健福祉手帳を取得した。どうでもいいことだが、障害等級は3級。

私は、いつから「障害者」だったか。これもどうでもいいことだけど、障害者手帳をとった5年前ではなく、10年前に双極性障害の診断を受けてからだろう。

双極性障害の診断を受けてから、障害者手帳を取得するまでに、5年も空いてしまった。なんですぐに手帳をとらなかったか。時間がなかったとか、手続きが面倒だったとか、理由はいろいろあるが、いちばん大きい理由は「障害者になるのがイヤだったから」だ。

手帳を持っていなくても、すでに双極性障害の診断を受けているのだから、障害者なのだけど。ただ、手帳をとってしまったら、公的にも障害者だと認定されてしまう。私の意識のなかではだが、手帳持ちと手帳なしとでは、プロとアマチュアくらいの違いがある気がする。

余談だが、手帳をとるメリットもなかった。私みたいな3級の手帳、言い方が悪くなるが、まったく「使えない」。一部の公共交通機関や公共施設の使用料が安くなったりはするが、まあその程度である。高額な診断書料を支払い、クソ面倒な手続きをパスしてまで、3級の障害者手帳をとるメリットがあるかというと、まったくないと思う。

じゃあ、なんで手帳をとったのかと聞かれれば、障害者として生きるのに「腹を括るため」と言ったらいいのか……あるとき、健常者として人生を送ることに不可能さを感じて、そこで、「健常者としての人生」と決別する意味で、障害者手帳を取ることを決めた。申請から数ヶ月して、手帳が手もとに届き、こうして私は名実ともに「障害者」となった。

障害者手帳をとったからといって、なにかが劇的に変わるわけではない。障害者手帳を携帯することも、少ない。先に書いた通り、3級の障害者手帳はメリットも少なく、したがって、使用する機会も少ない。それに、万が一出先で知人や友人に見られたらイヤだ。インターネット上では、精神障害者であることをオープンにしているが、現実で私が精神障害者であることを知っている人は少ない。現実では、精神障害を持っていることは、ひた隠しにしている。私は、「障害者である」という事実から、いまだに逃げ続けている。

話は変わる。主に西洋で、身体・精神を問わず、障害のことを「Gift」と表現することがある。当然だが、キリスト教の信仰と結びついており、訳すなら「(神様からの)贈り物」となるのか。

日本でも、当事者のことを「ギフテッド」と呼ぶ動きがある。主に発達障害について、教育の分野でだけど。本来的な意味でのギフテッド(先天的な高知能)と、関連する障害をからめて使われることが多い。

私は、この「ギフテッド」という表現が、すごくキライである。率直に言うが、障害者という、社会で「劣った」存在を、ムリヤリにエンパワーメントするために、「あなたたちの障害は贈り物で、特別なものなんだよ」と理由づけをしている。とんだおためごかしである。障害は障害でしかない。

しかし、「ギフト」という表現と、その意義について、真っ向から否定できるかというと、それはできなかったりする。むずかしいところである。

昔、縁あって『僕が15で社長になった理由』という本を読んだ。この本の著者である家本賢太郎氏は、14歳のときに受けた脳腫瘍の手術がきっかけで下半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされていた。その後は、ベッドの上での生活を送るも、15歳のときにインターネットホスティング企業「クララオンライン」を創業、18歳のときには下半身の神経機能が奇跡的に回復、その後も会社にいろいろ起こるが、現在も変わらず同社の代表として活躍していらっしゃる。興味を持たれた方は、ぜひ読んでほしい。

サラッと「起業」というイベントが挟まっていたり、生育環境が特殊であったりするので、本書を一般論とするのはむずかしいかもしれないが、これも、障害を巡るひとつの物語である。

家本氏のライフヒストリーにおいて、障害は「単なるつまずき」として否定的に描かれるのではなく、「人生の転換点」として肯定的に描かれている。氏が障害を持つ前は、プロ野球選手になりたかったそうだ。それが下半身不随で転換を迎える。なるほどという感じである。

その他、パラリンピックの選手や、障害者で成功している人……彼らの人生においても、障害は悲劇でこそあれ、その後の本人を否定するような事象にはなっていない。これは、メディアから受ける印象が強いのだろうが、彼らの人生はおおむね順調で、そして彼ら自身はとても強い。

彼ら自身は、すべて障害を乗り越えた、あるいは手なづけた英雄で、障害とともに生きることで、彼らの人生はいっそう豊かで力強いものになり、障害を克服した先に、彼らの人生は続いていく。

障害者として、健常者の社会で生きるのだ。当然、日々の生活は戦いの連続だろう。しかし、それすら勝ち抜いていく。そして、新たな栄光を手にして、健常者がたどり着けない地平を切り拓いていくのだ。彼らにとって、障害はまさに「ギフト」である。

じゃあ「ギフト」、障害は、すべての障害者の人生を豊かで、力強いものにしていくのか? 当然だが、答えは「ノー」だと思う。卑近な例だが、今これを書いている私が、まさに精神障害を前にして、挫けている。仕事をしていないし、不健康だし、貧乏だし、太ってるし、なんの取り柄もない。

これを読んでいる人にも、精神障害や、精神疾患を持った人は結構いるんじゃないかと思うが……どうですか、「ギフト」は、ありがたいですか?

私にとって、この「ギフト」は、すごく迷惑な話である。誰にクレームをつけたらいいかわからないが、いきなり精神障害を送りつけてくるのは、勘弁してくれよと思う。しかも、拒否することも、返品することも、捨てることもできない「ギフト」、これでは「贈り物」ではなく「呪い」だろう。

障害者が、自分の障害に悪戦苦闘する姿は、健気で美しい。障害を乗り越えていく・受け入れていく様子は、人間的成長そのものだ。数々の試練を目の前にして、時には涙を流し、時には挫けて、しかしあきらめることなく立ち上がり続け、そしていつか、大きなトロフィーを手にする。これは、まったく皮肉ではなく、成功した障害者の人生とは、たくさんのドラマによってつむがれた、素晴らしい物語だと思う。

でも、障害と戦えない人もいる。障害を乗り越えられない・受け入れられない人もいる。たとえば、私のように。そういう人々にとっても、障害は「ギフト」なのだろうか? そういう人々は、障害を前にして立ち尽くすか、あるいは逃げ続けるしかないのだろうか?

また、試練を乗り越えた先で、なんのトロフィーも得られない人だって、いるかもしれない。そういう人々の人生にとって、障害とはいったいなんなのだろうか? 単なる枷、単なる重荷でしかないのだろうか?

残念ながら、障害は、それ自体では「ギフト」ではないかもしれない。たとえ、まわりの健常者がなんと言おうと、障害者にとっての障害は、苦しみの象徴でしかない。肯定的に捉えることなんて、できるはずがない。

身もふたもない話だが、結果、結果がすべてだと思う。成功した障害者にとっては、障害は「ギフト」であり、そうでない障害者にとって、障害は「障害」でしかない。

「ギフト」って言うけど、双極性障害が私に与えてくれたものが、なにかあるか? 双極性障害を持ったことで、得られたものがあるか? そう考えると、とてもむなしくなる。双極性障害を持ってからの10年間、与えられるどころか奪われるばかりの、得るどころか失うばかりの10年間だった。これが、私にとっての現実である。

しかし、個人的な希望だが、障害は、やはりすべての障害者にとって「ギフト」であってほしいと思う。いまだに、なんの理由もなく、ただ苦しい思いだけをしているとは、信じたくない。障害を持って失ったもののかわりに、なにか得られたものがあると信じたい。障害を持ったことで、自分が成長していると信じたい。

もし、障害と引き換えに、得られたものがあるのなら。もし、障害と引き換えに、成長することができているのなら。そして、それが自分にとって、かけがえのない価値を持つとしたら。そのときは、私も「障害は『ギフト』だ」と、胸を張って言えるだろう。

障害に対するネガティブな感情を、自分の内側に飼い続けるのは、つらすぎる。だから私は、障害を持つことと引き換えに得られた価値を、障害を持つことで得られた価値を探したい。

障害で失ったものは、あまりにも大きい。だから、それと見合う価値にも、多くを求めてしまうかもしれない。たとえば、家本氏でいえば、起業家としての成功が、それに相当するかもしれない。著名な身体障害者で、国会議員になった方もいる。先日も、れいわ新撰組から、難病の方が立候補し、参議院議員に当選した。パラリンピック選手とかも、そうだろう。私はどうしたいのか、いまいちわからないが……私も、なにかわかりやすい成功がほしい。

っていうのは冗談で、私は、そんなに大きな成功は要らない。望みはといえば、これからの日々の暮らしを、つつがなく送られることくらいである。これから先、妻とふたりで食べていけるくらいの収入を得て、安定した暮らしを送る、それ以上の望みはない。それさえ叶えば、「障害が導いてくれた人生」に納得できると思う。人生、結果がすべて。それを叶えるためには、結果を出すにはどうすればいいかを、一生懸命考えている。

障害を持って、大きな夢を見られなくなったことは悲しいけど……もうそんなことを言っている歳でもないし。だいたい、双極性障害を持っていない人生だったら、東京にも来ていなかったし、妻とも出会っていなかっただろう。そう考えると、障害を持ったことから始まるお導きを感じてしまう(私はクリスチャンなので、こういう表現を使います。ごめんね)。

あとは、日々の暮らしを、少しずつ豊かなものにしていく。それが、私にとってのトロフィーなんだと思う。障害を持っていても、いなくても、生活って、こんなもんだと思うし。

今思えば、5年前に「腹を括って」障害者になった私の判断は、一切間違っていなかったように思える。障害は「ギフト」だ。それも、受取拒否不可の。送られたら、受けとるしかないのだ。

私は、この迷惑な「ギフト」を、ありがたい「ギフト」に変えたい。いや、障害の本質を変えるのはムリだから、せめて私にとっての意味だけでも変えたい。障害とともに生きる日々、私の生活はボロボロになった。しかし、ボロボロになっていく生活とともに、価値観や人生観などは、大きく変化してきた。私は、こういう変化をポジティブに捉えていて、これは障害を持ったことで得られた成長だと思う。

大きな成功はなくとも、小さな発見をいくつも積み重ねている。そして、実感としてだが、どれも私とって、素晴らしい発見ばかりである。双極性障害の治療の途中で、発達障害(ADHD)も発見されたしな!

この記事を読んでいる人たち、すでに「ギフト」を受けとっている人もいれば、まだ受けとっていない、あるいは一生受けとることのない人もいるかもしれないが……できれば、あまり多くの人には、受けとってほしくはない。私とおなじ、つらい体験をしてほしいとは思わないし。多くの人にとって、関係のない出来事だと、喜ばしい。

ただ、もし「ギフト」を受けとってしまったとしても、あまり悲嘆はしないでほしい。「ギフト」は、あなたの人生をメチャクチャにする、本当にメチャクチャにするが……かわりに、なにかを与えてくれるかもしれない。私は今、私に与えられるべきなにかを探している。

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