思い出せない

04.じんせいのこと
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ひさびさに、読書をした。遠藤周作の『恋愛とは何か』を読んだ。かなり前に書かれた、女性向けの恋愛指南本。こういう言い方をするとムカつかれるかもしれないが、私は既婚、恋愛のフィールドからはもう降りているので、こういう本も気楽に読める。

この本は、以前にも読んだことがあるが、ヒマをつぶすのに文量がちょうどいいのと、内容もすっかり忘れていたので、もう一度読むことにした。再読だけど、内容はまったく思い出せなくて、新鮮な気持ちで読めた。すごく読みやすくて、3時間くらいで読み終わった。「恋愛と愛は違う」「愛は育てるもの」と書いてあって、私もそう思います。

次は、積読していた社会学関連の本、心当たりの本があったので、それを読もうと思い、部屋のなかを探した。ただ、困ったことに、心当たりの本を、どこにしまったのかが思い出せない。というか、心当たりの本のタイトルや、書影も思い出せない。

霞をつかむように闇雲に、本棚を探る。ウチには、みっつ本棚がある。ひとつは、私専用の本棚。ここには、それらしい本がなかった。ふたつめ、いちばん散らかった本棚。すみずみまで探したが、ここにも、それらしい本はなかった。みっつめ。最近買った新しい本棚。まだスカスカな本棚のなかにも、それらしい本はなかった。

そうこうしているうちに、そもそもどんな本を探していたのか、そのイメージが、ますますぼんやりしてきた。もしかしたら、社会学じゃなくて、人類学の本だったかもしれない。ハードカバーだったっけ、新書だったっけ。分厚かっただろうか、薄かっただろうか。表紙は赤かったっけ、白かったっけ。

こういうこと、最近に始まったことではない。むかしから、なんとなくのイメージが、頭のなかで、パチッと像を結んでしまうことがある。夢の内容だったり、街で見かけたなにかだったり、いつか人と話した事柄だったりが勝手に結びついて、自分のなかに「なにか」の実像ができ上がってしまう。これは私に限った話ではなく、だれにでもあると思う。

「なにか」は、思い出せないことが多い。というか、おそらく「なにか」は実在しないのだから、思い出せるはずもない。さっきまで探していた本も、もしかしたら実在しない、私の頭のなかにしか存在しない本かもしれない。あの「なにか」を読みたい、いまだに心残りがあるが、存在しない「なにか」は読めないので、しかたがない。

しかたないので、本棚にあった歌集をかわりに読んでいたら、今度は古典文法の勉強がしたくなってきた。そういえば、以前友人から文法書をもらったっけ。そう思い出し、また本棚を探したら、文法書はすぐに見つかった。しかし、出てきた文法書は、記憶にある姿かたちと違っていた。私の記憶だと、文法書の表紙の色は白だったはずだが、出てきた文法書の表紙の色は水色だった。

すこし混乱して、しばらく時間をかけて思い出す。白い文法書は、高校生のとき使っていたヤツだ。このあいだもらった文法書の表紙は水色、だからこれで間違いない。よかった。でも、どうして今、高校生のころの記憶がよみがえってくるのか。余計なことをしないでほしい。

こんな感じで、記憶がジャムることが、ときどきある。思い出したいのに思い出せないこともあれば、思い出さなくてもいいのに思い出されてくることもある。困ったものである。私はまだ若いので、認知機能の低下ではないと思いたい。幸い、まだ生活に差し支えはない。しかし最近、妻との会話のなかで「あれ」「それ」「これ」といった、指示代名詞を使う頻度が増えていて、すこし心配である。

結婚記念日を、私の誕生日とおなじ日にした。かならず忘れてしまうから。妻への愛が欠けているわけではなく、それくらい、自分の記憶を信用していない。自分の誕生日すら忘れる、それくらい、記憶に自信がない。結婚記念日と誕生日、イベントがふたつリンクしていれば、さすがに忘れはしないだろう、そんな期待を込めている。

カップルには、いろんな記念日がある、交際記念日とか、同棲記念日とか、はじめてどこかへ行った記念日とか、カウントし出せばキリがない、毎日がスペシャルなのだが、ウチでは結婚記念日と誕生日以外、すべてご容赦をいただいている。私が覚えていられないので。記憶のリソースは有限が無限か、私は科学者ではないのでわからないが、すくなくとも私自身は、最近記憶の限界を感じている。

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