文章組手第28回「生と死」

10.文章組手
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過去に3回、自殺を図ったことがある。死にたがりだった。

私は、双極性障害(躁うつ病)という精神障害を持っている。双極性障害は、とても自殺率が高い。そのためか、私も過去にずっと希死念慮(「死にたい」という観念)に悩まされ、実際に行動に移したことがある。

一度目は、新卒の会社に勤めていたころ。日曜日、会社の寮の自分の部屋で、夕日を見ていた。夕日があまりにもキレイだったので、手持ちの向精神薬を一気飲みして、死のうとした。このときは、運よく病院に運ばれて、一命をとりとめた。

二度目は、新卒の会社でパワハラにあっていたころ。耐えられなくなって、海が見える場所で死のうと思って、会社をバックレた。青森県八戸市のホテルで、部屋のドアノブにベルトをひっかけて、首を吊った。意識が薄れていく途中、怖くなって首からベルトを外した。死ねなかった。

三度目は、会社をやめたあと。自分がミジメになったのと、将来のことが考えられなくなって、自室で首を吊った。意識は失ったが、ちゃんと吊れていなかったのか、しばらくしてから目を覚ましてしまった。

三度自殺を図って、三度失敗した。毎回きっちり死ぬつもりだった。三度自殺を図って、生き残る確率は1/4で、運がよかったと思う。

一年ほど前までも、希死念慮に悩まされてきた。最近は生活も安定してきて、「死にたい」と思う要素なんてなにもないのに、死ぬことを考えることがやめられない。

なので、私にとって、死はごくごく身近な問題である。今でもたまに「死にたい」と思う。そして、死ぬための方法はたくさん知っているし、いくつかを実践した経験もある。いつ死んでしまうか、わからない。

しかし、死にたくはない。生きていたいと思う。上手くいかないことは多いけど、毎日幸せだし、日々の生活が愛おしい。自分の生活を守りたいし、生き続けていたいと思う。

人は、必ず死ぬ。生きている限り、いつか寿命が来る。寿命を待たずとも、病気や、事故や、災害によっても死ぬ。こういうことは、仕方がない。運命だと思って、あきらめて、受け入れるしかない。

ただ、自殺だけはイヤだ。生まれてきた以上、やむをえない事情で死ぬまでは、生きていたい。自分の生活を、大切に思う。それを自分の手で断ち切るようなことは、したくない。

生きていたいと思う。生きていたいと思うんだけど、生きていく自信がない。家賃を払う自信がない。食費を稼ぐ自信がない。税金を払う自信がない。その日暮らしをやりきる自信がない。死ぬことが、いちばんラクな選択肢に思える。「死にたい」と思う。

「死にたい」と思うことが、やめられない。最近、また希死念慮がジリジリと湧き上がってくるのを感じる。双極性障害に振り回されて、ムダな毎日を送っていると、「生きていても仕方がないのでは?」という疑念が湧いてくる。

具体的に「死にたい」とは思わなくても、「これ以上、生きていたくない」「もう消えてしまいたい」そういうことを思う。最近、毎朝目覚めるのが、苦痛になってきた。夢のなかで生きていたい、夢から目覚めたくない。現実の生に帰りたくない。

人はみな、いつか死ぬ。その「いつか」が、いつになるのかはわからないが、必ず死ぬ。私にとって、その「いつか」はいつだろうか。その「いつか」を待ちわびている自分がいる。

反面、やはり死にたくはない。死ぬまで、ずっと生きていたい。無意味でもいいから、でも美しい日常を積み重ねて、「これが私の人生だった」と胸を張って言えるようになってから、死にたい。

だから、普段から死を遠ざけている。向精神薬は、一気飲みしないよう工夫をしている。首吊り用のベルトは捨てた。身体を傷つけるクセがなかったことは、幸いだ。気持ちは、いつも死にたがっている。気を抜くと、自分から死に近づいてしまう。

心の底では「生きていたい」と思っている。自然死するまで、ずっと生きていたい。変なタイミングで死にたくない。希死念慮、「死にたい」という気持ちは、双極性障害が見せている幻だ。そう信じて、毎日を生きている。

自殺は、イヤだ。何年か前に、友人が自殺した。そのとき、悲しみとか怒りとか、そういうわかりやすい感情以上に、言葉にしづらい嫌悪感を覚えた。自殺した友人に対してではなく、自殺という行為に対して、ものすごくイヤな感じを覚えた。たとえるなら、咲きかけの花のつぼみを、切って落としたような感じ。

自殺したら、なにもかもがおしまいだ。自然死や病死、事故死なら、まだ「死の説明」がつくからいい。自殺は、説明できない。説明できないから、受け入れられない。友人の未来が、彼の生活が、プッツリと断絶してしまったことを、受け入れられない。

事情があったのだろう。私には測りかねる、友人の苦悩や困難。そういうもの、生の苦しみに耐えかねて、自殺という道を選んだのかもしれない。それについては、なんとも言えない。

「生きてさえいれば、なにかいいことがあるよ」とは言えない。生きていても、ロクなことはない。ただ、毎日の暮らし、生きていること自体が美しく、素晴らしいものだと思う。私は、友人が生きていく姿を、遠くからでいいからずっと見ていたかった。

ただ、友人のことを「うらやましい」とも思ってしまう。「自殺」という決断をして、それを実行した友人は、勇気があった思う。私は「生きていたい」と「死にたい」とのあいだを行ったり来たりして、フラフラとしている。

生と死のはざまを生きている。自殺はイヤだけど、死ぬチャンスがあれば、フッと死を選びそうな気がする。生と死、どっちに転んでも、おかしくはない。「生きていたい」「死にたくない」と思ってはいても、生は困難にあふれているし、死はラクそうだ。

しかし、たとえ生が困難にあふれていても、生きていたい。死のラインを、自分から進んで越えたくはない。踏ん張るとか頑張るとか、そういうつもりはさらさらないが、なんとなくずっと生きていたい。

普段はあまり意識することもないかもしれないが、生と死はとなりあわせだ。その気になれば、これを書き終えたあと、すぐに死ぬこともできる。死ぬ方法なんて、いくらでもある。死の誘惑は常にあって、いつでも私を待ちかまえている。とてもしんどい。

しんどいけど、耐え抜きたい。べつに「障害に勝つ」とか「生きてなにかを成し遂げたい」とかではないけど、自殺はイヤだ。自分を花にたとえるなら、まだつぼみすら結んでいない状態だと思う。これから先、花が開いて実を結ぶかどうかはわからないけど、自分の手でつぼみを摘むのだけは、イヤだ。

今は毎日生きているだけだけど、その毎日が愛おしい。朝起きて、キッチンの採光窓からあふれる朝日を見て、熱いコーヒーを淹れて、パンを焼いて、顔を洗って、寝グセを直して……生活のひとつひとつが愛おしいし、かけがえのないものに思える。ささいなことだけど、日々の生活のなかには、美しいものがあふれている。

絶対に死なないぞ、絶対に自殺しないぞと思いながら、毎日を生きている。たとえ、これから先にいいことがなにひとつなくとも、悪いことしかなくとも、死ぬまでずっと生きていたい。私の生、人の生は、ただあるだけで素晴らしいものだと信じているので。

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