精神障害者の幸せのこと

03.精神障害のこと
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私は、精神障害者である。双極性障害(躁うつ病)、および発達障害の診断を受けている。精神障害者保健福祉手帳(障害者手帳)も持っている。等級は、精神3級。

私は、既婚である。2年前に結婚して、妻がいる。今も一緒に暮らしている。妻とは、強い信頼関係で結ばれていると思っているし、妻と過ごす日々はとても楽しい。

私は、仕事をしていない。昨年の秋ごろ、深刻なうつ状態におちいった。そのため、当時勤めていた会社をやめた。今は、貯金を取り崩すなどしながら、療養に専念している。

私は、一面的には幸せである。毎朝、満員電車に詰め込まれて出勤しなくてもいい。会社で、理不尽な怒りにさらされることもない。付き合いで、飲みたくもないお酒を飲むこともない。会社をやめてからは、妻と過ごす時間も増えた。一日単位で見れば、安楽な生活だ。

反面、深い不幸を感じることもある。過去の記事にも書いてきたことだが、障害を持ったこと、それによって就労が困難なこと、経済的な問題、日々激しく移り変わる精神状態、それによってメチャクチャになる日常。

双極性障害による感情の変調は、コントロールできない。気分がいつ激しく上がる/下がるかは、予測できない。気分が上がった/下がったらどうなるのかも、予測できない。薬を飲んで寝る以外に、手の打ちようがない。なので、遠出をしたり旅行をしたりするのは困難だし、近場へ外出するのもためらわれるときがある。

発達障害が、日に日に顕著になっていく感覚もある。以前ならできていたことが、今はできない。以前なら理解できたことが、今は理解できない。

発達障害、私の症状でもっとも顕著なのは(多分)聴覚過敏だ。たとえば、外で人と話をしているとき。話し相手の声以外にも、まわりの声や物音が、すべて情報として耳に入ってきてしまい、頭がパニックにおちいって、会話ができなくなってしまう。要するに、情報の選択的聴取ができない。以前は、静かな喫茶店とかなら平気だったが、最近はもうどこへ行っても、まったく会話ができない。

幸せについては、以前の記事にも書いた。「幸せ」とは「一時的・静的な状態」だと思っている。長い人生のなかで、幸せな時期もあれば、不幸な時期もある。幸せとは、来ては去り、また来ては去るもので、生まれてから死ぬまでずっと幸せな人間、あるいは生まれてから死ぬまでずっと不幸な人間なんていないだろうとも思っている。

そもそも「幸せ」とはなんだろう。これは、人によるとしか言えない。たとえば、お金持ちがすべて幸福かといえば、それは違うだろう。逆に、貧乏はすべて不幸かといえば、それも違うと思う。

私は、どちらかといえば貧乏寄りだし、「お金がほしい!」という気持ちは強いが、じゃあ不幸かといえば、それは違うと答える。要するに、なにごとも多面的なのだ。みんな、ある面では幸せであり、ある面では不幸である。それぞれの天国があり、それぞれの地獄がある。

なにが幸せかは、人による。一概には言えない。お金で幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。知識や学業によって幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。結婚によって幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。起業によって幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。

じゃあ、障害はどうだろうか?

私の記事のなかには、しばしばパートナーとしての「妻」が登場する。私は、自分の生活を見つめながら記事にしているし、私の生活と妻とは不可分だから、必然的に登場させざるをえない。

少し前にアップロードした記事に対して、Twitterでこんなコメントが寄せられた。

「精神障害者なのに妻がいるのは不思議」

「『パートナーに助けられてます』みたいな展開はうんざり」

記事をシェアすると、私のところにも通知が来る。その人が、それを意図してやったのかどうかはわからないが、上のコメントはしっかりと、私のもとに届いた。

その人が、当事者か非当事者かもわからないが、そのコメントを見て、私は閉口してしまった。

障害者が結婚していたり、障害者にパートナーがいたりすることが、そんなにおかしいことだろうか。

障害者だって、普段は障害者なりに生活している。恋愛もすれば、結婚して家庭を持ったりもする。その点は、健常者となんら変わらない。障害者がパートナーを持つことは、いけないことなのだろうか。

たしかに、私が妻に助けられている部分は大きい。しかし、それは逆も然りだろう。それに、我が家の結婚生活において、私の障害の有無というのは、今はさほど大きな要素ではない。

妻はケースワーカーでもなければ、ヘルパーでもない。金銭的にもそれ以外でも、生活全般の面倒をみてもらっているわけでもない。私には私の、妻には妻の生活があり、ある面では助け合い、ある面では独立して、生活している。

結婚生活だって、すべてが安寧で幸福なわけじゃない。小さなことでケンカすることもあるし、相手の態度でヤキモキしたり、お金のことでカリカリしたりもする。「結婚=幸福」と思ったら、大間違いだ。私も妻も、幸福を得るために、毎日試行錯誤しているし、その過程で不幸を感じることも当然ある。

それに、「結婚している」というのは、私の一面でしかない。当然、他の側面だってある。結婚、プラスマイナスこそあれ、まあトータルでは幸せである。それは否定しない。

しかし、私は社会において「夫」としてだけ存在しているわけではない。「30代男性」「無職」「障害者」など、私にはさまざまな側面があり、その総体が私という個人で、それぞれに幸福や不幸があるのだと思う。

障害のせいで、選択的にあきらめなければならない部分は多い。たとえば私は双極性障害で、双極性障害は遺伝する可能性があるらしいから、子どもを持つことはあきらめている。精神状態に大きな波があるから、職業選択の自由も限られる。

でも、限られた選択肢のなかででも、自分の幸福を希求したい。それについて、他人からとやかく言われる筋合いはない。

健常者や、ほかの障害者がどう考えているのかは知らないが、私は障害者にも幸福になる権利はあると思うし、また障害者でも幸福になることはできると思う。

「障害者」というと、とにかく暗いイメージ、苦労して、這いつくばって生きているような印象を持たれているのかもしれない。

だけど、障害者も一個の人間なんだ。恋愛もすれば家庭も持つし、十人十色の人生がある。障害を持っているから、当然つらいことは多いが、それでも、それなりに幸せなこともある。

私は障害者だけど、孤独で不幸な生涯を送るつもりはない。努めて明るく、楽しく生きていたいし、妻ともずっと一緒にいたいと思う。

障害や、その他もろもろが、それをジャマしてくるかもしれないが、それらとも上手くつきあって、死ぬまで明るく、楽しくやっていきたい。

たまたま私が「結婚している」という事実だけを抜き出して、「不思議」「こういう展開はうんざり」と思う。バカか。私が結婚しているという事実、それによる幸福ばかりを勝手に想像して、それに疑問を呈されたり、否定されるのは勝手だ。しかし、それはあなたの中にある、歪んだ差別意識のあらわれだということを強く言っておきたい。

「障害者だから孤独であらねばならない」「障害者だから不幸であらねばならない」そういう古臭い偏見が、きっと「障害者が結婚してて不思議」「どうせパートナーに助けられてるんだろう」みたいな意見につながるのだろう。

先のコメントを送ってきたのが、当事者か非当事者かどちらかはわからないが、どちらにせよ悲しい。

当事者だとしたら、ご自分の人生の可能性をあきらめている、それを公言してしまっていることが、悲しい。「障害者だから、パートナーは持てない」というのは、障害の中身や程度にもよるのかもしれなので、一概には言えない。パートナーを持つことをあきらめるのも、おのおのの自由だが、悲しい。

非当事者だとしたら、障害者に対して薄暗い、そしてカビ臭い差別意識を、いまだに持ち続けていることが悲しい。

障害者も、障害を持っていること以外は、健常者となんら変わらない。障害を持ったことで不可能になってしまったことは多いが、それでもできる範囲で欲求を叶えていきたいし、幸福でいたいと思う。

コメントを送ってきた方々、あなたがどういう障害者像を持とうと、それはあなたの勝手だが、それを私に押しつけないでほしい。

当事者としてのあなたが、自分の幸福をあきらめていようと、非当事者としてのあなたが、障害者に対して偏見を持っていようと、そんなの私には一切関係ない。私は、自分の人生の可能性を追求したい。私には私の生き方がある。

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