「最近の若い者は」

04.じんせいのこと
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今朝、友人と喫茶店へ行ってきた。となりの席には、3人組の老婦人が座っていた。年寄りは耳が遠いので、とにかく話し声がデカい。会話の内容が、コチラまで丸聞こえである。

3人の老婦人のうちひとりは、貸し物件をやっているらしかった。この時代に、家賃は手わたし。バカバカしい……と思いながら聞いていた。老婦人は、若い店子がロクに挨拶もしないと嘆いている。その話の流れで、老婦人が「やっぱり最近の若い子はダメね」と言った。

こういう「最近の若い者は」という言説、もう聞き飽きた。人は歳をとると必ず「最近の若い者は」という語り方をするようになる。自分より若い人たち、下の世代の人たちのことを「若者」と雑にくくって、批難する。これは、古代エジプトから続く人類の伝統、この世の定めだから、仕方がない。

ただ、逆に聞きたいんだけど、お年を召したあなたがたは「いい」の? 「若者はダメね」と言うけど、じゃあお年を召したあなたがたは「いい」わけ?

以前、近所を散歩していたとき、高齢の男性から道を聞かれたことがあった。男性は自転車に乗っていて、道を歩く私の進路をふさぐように自転車を止めて、なんの断りもなく「ブックオフ、どこ?」と聞いてきた。

近所のブックオフは、2年前につぶれた。それを伝えると、男性はひとりごとのように「昔はあったんだけどなあ、ブックオフ!」と言った。だから、私もそう言っている。

頭にきた。進路をふさがれたことがひとつ。自転車とぶつかりそうになって怖かった。なんの断りもなく話しかけてきたのがふたつ。マナーがなっていない。タメ口だったのがみっつ。私はお前の友だちではない。しつこく話しかけてきたのがよっつ。私は急いでいる。せっかく答えてやったのに、礼を言わなかったのが、いつつ。礼節はないのか。

べつに、路上に限った話ではない。飲食店でも、小売店でも、役所でも、私はこういうことがよくある。いきなり話しかけてくるのは、老人。なれなれしいのも、老人。ロクにあいさつができないのも、老人。敬語を使えないのも、老人。礼節をわきまえないのも、老人。老人が若者を嫌うように、私も老人がキライだ。

私は、「敬老」という言葉もキライだ。大キライだ。たしかに、尊敬できる老人は多い。先人から学ぶことは、たくさんある。ただ、そうでない老人もたくさんいる。ブックオフジジイとか。「老いている=敬われるべき」では、決してない。敬うことと年齢は、関係がない。個々人によるとしか言えない。

「最近の若者は」という言説も、大キライだ。ひとくちに「若者」と言っても、いろいろな若者がいる。喫茶店の老婦人がおっしゃったとおり「ダメな若者」もいるだろうが、そうでない若者だって、たくさんいる。

それをまとめて「若者」とくくって批難するのは、バカげたことだ。だったらコッチも「老人」をまとめて攻撃してやろうか。そんな気持ちになる。

っていうか、「若者」ってなに? と思う。私自身は、一応まだ「若者」である自覚があるけど、じゃあ「『若者』とはなにか?」と問われると、答えに困る。「若者」というカテゴリー、あいまいすぎやしないか。喫茶店の老婦人がおっしゃった「若者」とは、いったいなんなのだろうか。

「若者」というカテゴリーは、あいまいだが、たしかに存在する。私の意識は、間違いなく「若者」に属している。老婦人が「若者はダメね」と言っているのを聞いたとき、私は「若者として」不快な思いになった。

ついつい私も「これだから老人は……」と思ってしまったけど、そもそも私が思い浮かべた「老人」も、あいまいで得体が知れない。ムカつくのは、となりの老婦人だけであるはずなのに、「老人」というフワッとしたカテゴリーに怒りを向けてしまった。私の思考回路も、根っこはとなりの老婦人と変わらない。

「若者」「老人」に限らず、「男性」「女性」「日本人」「外国人」「白人」「黒人」「異性愛者」「同性愛者」など、あいまいなカテゴリーはたくさんある。カテゴライズすると、ものごとは単純になって、わかりやすくなる。だけど、あいまいなカテゴリーで人をカテゴライズするのは、絶対によくない。

「イギリス人はこう」「ゲイはこう」みたいなカテゴライズやステレオタイプ、単純でわかりやすいから、好まれるのだろう。ネタとしても、おもしろいときはある。傾向論として、正しい部分もあるかもしれない。歴史や社会構造を語るうえでも、有効なのかもしれない。

ただ、人をカテゴライズすること自体は、とても危険な行為だ。「イギリス人だからこう」「ゲイだからこう」と決めつけること、レッテルやラベルを貼ることは、偏見や差別を助長する行為というか、偏見や差別そのものだと言っていい。カテゴライズによる分断から、対立や争いが生まれることもある。

また、人をカテゴライズすることは、その人の在り方を規定することにもなる。その人本来の在り方を無視して、「イギリス人」とか「ゲイ」みたいな型枠、ステレオタイプを押しつける。れきとした暴力だと思う。

私が黄色人種で、日本人で、男性で、異性愛者で、わりと若者であることは間違いない。間違いないけど、それ以前に、私は私という人間だ。黄色人種であること、日本人であること、男性であること、異性愛者であること、若者であること、どれも私の要素でしかない。私の本質ではない。

私は、私のことを「日本人だから」とか「男性だから」とか「若者だから」とか、そんな雑なくくり、ステレオタイプで語ってほしくない。私は、私をなす要素の総体として語られたい。

ただ、現実に私は「日本人」「男性」「異性愛者」「若者」などのカテゴリーに属していて、そのカテゴリーへの帰属意識もある。「若者」がバカにされて、私は腹が立った。「男性」が叩かれていると、私も傷つく。みんなも、なんらかのカテゴリーに属していて、その自覚もあると思う。

だから私は、人を語るときにはできるだけ「イギリス人は」とか「女性は」とか「ゲイは」とかの、雑なカテゴリーは使わない。人を語るときは、カテゴライズされた一般論にせず、個別論、あくまで「その人」を語るように気をつけている。

最近は、多様性が広く受けいれられるようになってきた。人種や国籍、性別や性嗜好などのラベルで区別されることは減ってきた。しかし、まだカテゴリー間の対立は根深いし、差別・疎外されている人もたくさんいる。アメリカでは、現在進行形で暴動が起きているし。

何度も言うが、カテゴライズやステレオタイプは、単純でわかりやすい。しかし、本質はとても危険な行為だ。人の在るべき姿を、根本から変えてしまう。人の持つ多様性を、根こそぎ奪ってしまう。だからこそ、複雑なものは複雑なまま、わからないものはわからないまま、認識して受け入れるべきだ。

私はもう34歳だけど、まだギリギリ「若者」の自覚がある。少なくとも、その老婦人よりは、はるかに若い。だから、老婦人の「若者はダメね」という発言を聞いて、「若者として」すごく不愉快だった。

彼女は、きっと私個人に向かって「ダメ」と言ったわけではないのだろう。私の知らないところで、なにかしらイヤなことがあったんだろうな。しかし私は、私が「ダメ」と言われているようで、非常に不愉快な気持ちになった。その場で訂正してほしかったが、そういう度胸はなかった。

上の世代に、差別や偏見に関するデリカシーを求めることは、もう諦めている。「三つ子の魂百まで」と言う。いわんや70歳や80歳を過ぎてから価値観がアップデートされることは、まずないだろう。

しかも現在は、価値観の大きな転換期にあると思う。ここ5年くらいだが、年を追うごとに、価値観が一新されている気がする。年老いた人に、毎年新しい価値観を強いるのは、酷なことだ。死ぬまで「最近の若い者は」「若者はダメね」と言い続ければいいと思う。

ただ自分は、絶対にそうはなりたくない。「最近の若い者は」とは、絶対に言いたくない。雑なくくりで人を語りたくない。年齢も性別もなにも関係ない。ちゃんとその人を見て、聞いて、「いい」か「ダメ」かを判断したい。

「最近の若い者は」という言説は、性的マイノリティや人種問題とおなじレベルで、立派な差別だと思う。若者は、理由なくしいたげられている。ギリギリ若者として、徹底的にプロテストしたいが、ジジイやババアにはなにを言ってもムダだし、いずれ私もジジイになる。私がジジイになったとき、おなじような差別を繰り返さないよう、つねに「正しい」価値観をインストールしていきたい。30年後には「いい」ジジイになっていたいね。

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