「精神障害への理解」という幻想

03.精神障害のこと
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私は、双極性障害という精神障害の当事者。障害者手帳も持っている。一昨年に、双極性障害が原因で会社をやめて、以来仕事をしていない(できない)。

私は、結婚している。3年前に結婚した妻がいる。妻とは、結婚前からずっと一緒に暮らしている。「精神障害の当事者」である私と、「健常者」である妻、今のところ、すごくうまくやれている。

なので、妻のことを「精神障害への理解がある」と言われることがある。過去には、私も妻のことを「精神障害への理解がある」と書いたことがあるかもしれない。

しかし今は、「精神障害への理解」なんて、まったくの幻想だと思っている。べつに妻とケンカしたわけでもなければ、妻の無理解に怒っているわけでもない。ただ、「精神障害を理解する」ということ自体が、不可能でムダなことだと思うようになった。

理由は、みっつある。

ひとつめ。まず私自身が、自身の精神障害について、正しく理解できていない。精神障害の当事者なのに、精神障害のことが理解できない。

私は、精神障害のひとつである双極性障害の当事者だけど、そもそも「双極性障害とはなにか」について、ちゃんと知らない。わからない。

もちろん、本を読んだり、インターネットの記事を読んだりして、双極性障害についての勉強はしている。一般論的に「気分が激しく上下する障害」それくらいの説明はできる。ただ、一当事者として「双極性障害にも、いろいろある」ということを知っているので、「双極性障害とはなにか」を断言することはむずかしい。

「躁状態がつらい」「うつ状態がつらい」「どっちもつらい」という個人的な話は、いくらでもできる。だけど、「双極性障害とはなにか」「どういう障害なのか」と聞かれると、よくわからないので、言葉に詰まる。

ひとくちに「双極性障害」と言っても、症状の出方はさまざま、人それぞれだろう。躁状態がひどい人もいれば、うつ状態がひどい人もいる。病状は、一定ではない。時期や季節によって、状態や心境、心持ちや障害の捉え方も、ガラッと変わる。

DSMなどで、精神医学的な定義はなされているし、お医者さんなら適切に説明できるのかもしれない。ただ、私は医者ではない、一当事者である。双極性障害については、私が体験したことしか、わからない。

それに、私が双極性障害の当事者として体験してきたことについても、私はまだちゃんとわかっていない。双極性障害なってから、10年経つ。10年間、次から次へと、わからないことが出てくる。双極性障害のことをわかっていないから、この10年間は障害に振り回されっぱなしだし、セルフケアもいまだに十分できていない。

当事者である私自身が、双極性障害について理解できていない。得体の知れないバケモノが、自分のなかに住みついている。双極性障害になってから10年経った今でも、そんな印象のままである。とても「理解している」とは言えない。

ふたつめ。精神障害の当事者である私が、私自身の精神障害のことを理解していないのに、他人が私の精神障害ことを理解できるとは、とうてい思えない。

もっとも身近な他人である妻は、医者ではない。健常者の会社員である。精神医学の知識は、当然ない。

妻との交際を始める前に、私から「双極性障害を持っているけど、いい?」という話をした。そのとき妻は「べつに気にしないよ」と言ってくれた。

しかし、交際を始めてから、私の気分変調が原因でケンカをすることが、何度もあった。「気にしないよ」とは言ったものの、やっぱり気になっていたんだろうなァ。そりゃそうだ。

この時期のことについて、妻を責める気はない。責める筋合いもないし。双極性障害の当事者として、セルフコントロールできてなかった私が悪い。自分の気分変調に気づいてなかった私が悪い。

双極性障害が悪化して、会社をやめて、アルコール依存になりかけて、家庭生活が破綻しかけた。その段階になって、ようやくキチンと妻と話し合いをした。「私のトリセツ」みたいなのを定めることで、なんとか家庭を維持できている。

「私のトリセツ」、私から「寝込んでいるときは、声をかけないでほしい」「活動的になってきたら、早めに休むよう言ってほしい」「気分が上がり気味なので、変なことをしないよう監視していてほしい」「寝る前には『薬飲んだ?』と確認してほしい」など、こうしてほしいということを、妻に伝えた。対症療法的なものだが、今のところ上手くいっている。

これはべつに、妻に「精神障害への理解」があったためではない。妻は今でも「気にしないよ」というスタンスで、「双極性障害」に対して特別な関心があるわけではないのだろう。

双極性障害、わりとメジャーな精神障害だけど、そもそも精神障害自体がメジャーじゃない。私も、自分がなるまでは「双極性障害」という存在すら知らなかった。

だいたい、「精神障害に関心のある健常者」なんてものは、ごくごく少数だろう。健常者だったころの自分も、「精神障害? 気のせいでしょ!」くらいにしか考えていなかった。

精神障害について、他人に説明すること、そして理解を得ることは、かなりキツイ。まず、自分が精神障害に詳しくなければならない。次に、他者の興味や関心をひかなければならない。

私は、双極性障害の当事者だけど、双極性障害には詳しくはない。そして妻は、双極性障害について、あまり関心がない。コレでは「理解」にはたどり着けないが、ほとんどの場合、こんな感じだと思う。

なので、最近は「双極性障害とはなにか」について、妻と話すことはやめている。かわりに「私のトリセツ」のような、行動ベースでお願いをしている。

みっつめ。他人が私のことを理解できないように、私も他人のことを理解できない。自分ができないことを、他人に強いてはいけない。

私は双極性障害の当事者だけど、他の双極性障害当事者の気持ちは、まったくわからない。先に書いたように、ひとくちに「双極性障害」と言っても、いろいろある。なので、「双極性障害当事者はこうですよね!」という話はできないし、したくない。

ましてや、統合失調症や発達障害の当事者の気持ちなんて、わかりようがない。いや、「お互い大変ですね~」くらいのことは言えるけど、具体的になにがつらくて、なにに困っているかは、まったくわからない。

障害当事者の困りごとについて、想像力を働かせることはできる。ただ、それはあくまで個人の想像であって、現実とマッチするかどうかはわからない。

障害当事者にたいする「合理的配慮」という言葉もあるが、コレもあまり好きではない。なにが「合理的配慮」なのか、精神障害の種類や程度、当事者の状態や意識によって全然変わってくる。「合理的配慮」のつもりが、とんだ善意の押し売りになることだって、あるかもしれない。

精神障害の当事者がどうしてほしいのかなんて、当事者ひとりひとりによって違う。積極的に支援してほしい人もいるだろうけど、そっとしておいてほしい人もいるだろう。その日そのときの気分によっても、変わるかもしれない。

私だって、うつ状態のときはそっとしておいてほしいけど、かといって放置されると死んでしまう。躁状態のときは一緒に楽しくなってほしいけど、かといって悪ノリはよくない。配慮は、塩梅がむずかしい。

要するに、精神障害の当事者は複雑で、よくわからないということ。世の中には、どマイナーな精神障害だってたくさんある。医学の進歩によって、新しく明らかになる精神障害もある。すべてを知ること、すべてに配慮することは、私にはできない。「もっと精神障害に関心を持て!」と言われても、限度があるし、困る。

自分にできないことを、他人に求めてはいけない。「双極性障害についてわかってほしい」「配慮をしてほしい」という気持ち、なくはないけど、他人に過度な期待をしたり、他人に配慮を強制したりするのは違うんじゃないのかな。

たとえば我が家の「私のトリセツ」、私が妻に「寝込んでいるときは声をかけないでほしい」「活動的になってきたら、早めに休むよう言ってほしい」「気分が上がり気味なので、監視していてほしい」「寝る前には『薬飲んだ?』と声をかけてほしい」と要求すること、これも実は気が引けている。

双極性障害の当事者として、健常者である妻に、それも双極性障害について詳しくない妻に、変なことを要求してしまって、すまんなぁという気持ち。ただ、生活に必要なことなので、お願いしている。感謝にたえない。

精神障害の一当事者として、他の当事者の役に立ちたい・力になりたいという気持ちも、あった。実際、当事者会を開いたり、当事者同士で話したりもしていた。

ただ、当事者と交流すればするほど、「当事者」というものがわからなくなってくる。ひとくちに「精神障害の当事者」と言っても、価値観も状態も多種多様で、「THE 精神障害の当事者」というものは見えない。

だから、わからないものはわからないまま、複雑なものは複雑なままで受け入れようと決めた。自分も含めた「精神障害の当事者」、複雑でわからないから、なにもしてあげられないけど、仕方ない。同様に、私がなにをしてもらえなくても、仕方ない。

「精神障害への理解」、偽善的で、しゃらくさい言葉だなぁと思う。世の中にはたくさんの障害があり、もっとたくさんの障害当事者がいるんだ。そのすべてへ目を向ける、ましてや理解するなんて、不可能じゃないのか。

大切なのは「精神障害への理解」じゃない。「人への理解」だ。精神障害の当事者、たしかに精神障害を持っているが、精神障害を含めて「ひとりの人間」だ。見るべきなのはその人の持っている精神障害ではなく、その人そのものだ。

精神障害との向き合い方、当事者の数だけあって、当事者によってまったく異なる。それを「双極性障害だからこうしなきゃ!」「発達障害だからこうあるべき!」みたいに型枠にハメるのは、間違っている。上手くいくはずがない。

「精神障害への理解」なんてなくたって、「人への理解」があれば、上手くいく。我が家には、双極性障害を理解している人は、ひとりもいない。当事者である私と、双極性障害に大して関心のない妻がいるだけ。それでもわりと上手くいっているのは、妻が私の人の部分を見てくれているからだと思う。

なんとか一緒に暮らしていきたい。そのために、双極性障害というわけのわからないものが、ハードルになっている。しかし、精神医学はわからん。だったら、精神医学以外のアプローチ、生活からのアプローチをすればいい。生活から生まれた「私のトリセツ」、今すごくよく機能している。

何度も言うけど、「精神障害への理解」を持つのはムリだ。当事者からしてもムリ、まわりの健常者からしてもムリ。実現不可能なスローガンだ。

「精神障害への理解」なんて幻想を見てないで、自分自身を、目の前の人をよく見ろ。本当に必要なのは「精神障害への理解」じゃなくて、「人と人との理解」じゃないのか?

精神障害の当事者の方から、よく「家族の理解がない」「パートナーの理解がない」と聞くけど、そもそも家族やパートナーは、あなたがなにに苦しんでいるのか、ちゃんと知っているのか? 自分のつらさを、言葉で何度も家族に伝えたのか? 家族がエスパーでもない限り、言葉にして伝えないと、つらさや苦しみ、あなたがしてほしいことが家族に伝わることはない。

身近に精神障害の当事者がいる人は、ぜひ当事者の話に耳をかたむけてほしい。理解しようとは思わなくてもいい。どうせ理解はできないから。ただ、相手がなにに苦しんでいて、なにがつらくて、どうしてほしいのかをよく聞いてほしい。

精神障害の当事者、障害当事者である以前に、ひとりの人間だろう。「精神障害への理解」なんて言葉にだまされるな、生きているのは障害じゃなくて人、本当に必要なのは「人への理解」だ。「精神障害」というラベルに惑わされることなく、その向こうにあるその人自身を、ちゃんと見てほしい。

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