病名・診断名と自分

03.精神障害のこと
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私は、双極性障害(躁うつ病)という精神障害と、発達障害(ADHD・注意欠陥・多動性障害)の当事者である。いきなり話がそれるけど、「当事者」って、なんかいいですよね、強そうでカッコいい。

双極性障害の診断を受けたのが、10年前。発達障害の診断を受けたのが、1年前。いろいろなつらさや苦しみがあって、精神科にかかったら、つらさや苦しみに名前がついてしまった。

双極性障害とは、気分が激しく上下する精神障害である。気分がアッパーになる躁状態と、気分がダウナーになるうつ状態と、とくになにもない寛解期とを、周期的に繰り返す。

私の場合はだけど、3年くらい寛解期が続いたあと、1年くらい躁状態やうつ状態をコロコロ繰り返すことが多い。

症状には個人差があるけど、躁状態のときは社交的・開放的になって、衝動的な行動や浪費が増える。過去にはお酒の飲みすぎでアル中になりかけたり、カードローンの使いすぎで首が回らなくなったりした。

うつ状態のときは、なにもできなくなる。身体を動かすすらができなくて、ベッドで置物のようになっている。希死念慮(死にたいという観念)も出てきて、たまに自殺を図る。

寛解期は、きわめて落ち着いている。普通に仕事や家事もできるし、人間関係も良好である。寛解期にも薬物療法は必須だけど、薬を飲んでいること以外は、健常者となにも変わらない(と思う)。

双極性障害とは、もう10年の付き合いになる。双極性障害、本当に手が焼ける。本当に困っている。双極性障害のせいで、仕事は3年以上続かない。躁状態になると、人様に迷惑をかけることもある。うつ状態になると、日常生活すらままならなくなる。困った困った。

ADHDの診断を受けたのは、1年前。まだ短い付き合いなので、ADHDのことは、よくわからない。困りごとはとくにないのだけど、お医者さんやカウンセラーさんから見た私は「ADHD」らしい。

そう言われると、不注意・多動・衝動性というADHDの症状は、昔からよく出ていた気もする。昔から万事行き当たりばったりだったし、思いついたら即実行だったのだけど、こういうとこがADHDなのかもしれないなと思う。

私は「双極性障害の当事者」「ADHDの当事者」なんだけど、私自身にその自覚があまりない。双極性障害もADHDも、私の本質ではない。便宜上「当事者」を名乗ってはいるが、ぶっちゃけ双極性障害であるとかADHDであるとかは、どうでもいい。

双極性障害にしても、ADHDにしても、当事者はたくさんいる。障害に苦しんでいる当事者も、たくさんいるのだろう。私も、現在進行形で苦しんでいるし。

ただ、ひとくちに「障害の当事者」といっても、環境や境遇によって、苦しみ方は千差万別だと思う。

以前、精神障害の当事者会的なものを開いていたことがあった。そこで、他の当事者から「つらいです」みたいな話を聞く。私は、その人に同情する。「つらいですよね」と声をかける。ただ、それ以上のことは、なにも言えない。なぜなら、その人のつらさや苦しみはその人だけのもので、私には理解できないから。

おなじように、私のつらさや苦しみは、私だけのものだ。双極性障害やADHDによる苦しみはあるけど、双極性障害やADHDの当事者が、みなおなじように苦しんでいるわけではない。

障害由来のつらさや苦しみ、「双極性障害あるある」「ADHDあるある」みたいに表層的なことは言える。でも、根っこの部分は、本人にしかわからない。

大事なのは「私は双極性障害・ADHDの当事者である」ということではなくて、「私は双極性障害・ADHDでなにがつらくて、なにに苦しんでいて、なにに困っているか」ということだと思う。病名がついて、心がラクになることは否定しない。しかし、病名がついたからといって、現実はなにも変わらない。

もちろん、診断を受けて病名がつくことは、とても大切なことだ。病名がつかないと、医療を受けられないし、治療が始められない。「どの疾患・どの障害なのか」を明らかにすることは、とても大切なことだと思う。

ただ、病名自体には、大した意味はない。双極性障害やADHDが、たとえば就職に役立つことはない。むしろマイナスになる。おおっぴらにカミングアウトするものでもない。個人的には隠したいというか、なかったことにしたい。

以前の私は、SNSの自己紹介欄などに、自分が双極性障害とADHDの当事者であることを明記していた。おなじ当事者とつながりたいとか、「何者でもない自分」を当事者性で飾りたいとか、そんなことを考えていた。

ある日、自分で自分の自己紹介欄を見たときに「ウッ」となって、障害当事者であることを書くのはやめた。双極性障害・ADHDの当事者であること、まごうことなき事実だけど、それは私の本質ではない。双極性障害・ADHDを媒介として、人とつながりたくはない。

言うまでもなく、障害はトロフィーではない。「障害は隠すべきだ」とまでは思わないけど、障害をひけらかすのは、なんか違う気がした。障害を自分のアイデンティティのようにするのも、なんか違う気がした。私が、双極性障害・ADHDなのは、事実だ。だけど、双極性障害・ADHDが、私のすべてというわけではない。

というわけで、必要がある場合以外は、自身の障害について言ったり書いたりするのは、やめた。障害当事者であること、わりとどうでもいいし。隠すつもりはさらさらないけど、進んで言う必要もない。

まあ、ブログでは障害のことばかり書いているね……双極性障害・ADHD、私の人生において、ひとつの大きなテーマであることは間違いないし。おなじ障害で苦しむ人・つらさを抱えた人に、私の苦しみやつらさを届けたいし。あと、他にはあまり書くことがないので。

病名・診断名がつくことは、ひとつの大きなステップだと思う。私も、病名がついてから、それまでは抽象的だった生きづらさから、スッキリ解放された気がする。「この苦しみは、双極性障害だからだったんだ」「ADHDだから、つらかったんだな」みたいな。つらさの原因がハッキリした感じ。

だけど、病名がついたところで、やはり現実はなにも変わらない。抽象的だった苦しみやつらさが、具体的になるだけで、苦しい・つらいことには変わりない。

問題は、その苦しみやつらさを、どうケアしていくかというところにある。「双極性障害の、なにがつらいのか」「ADHDの、なにに困っているのか」それを明らかにして、ケアしていかなければ、本当の意味でラクにはなれない。

双極性障害・ADHDといった病名・診断名は、ケアのためのヒントでしかない。大切なのは、そのヒントを活かして、生きやすく・ラクになること。私個人にとってはだけど、病名・診断名自体にはあまり意味はないし、病名・診断名は私のアクセサリーではない。

病名・診断名というヒントを活かして、自分のつらさや苦しみを明らかにしていくこと。病名・診断名というヒントを活かして、生活のなかの困りごとを潰していくこと。コレが大事なんじゃないだろうか。

病名・診断名は、障害当事者に与えられた「レンズ」みたいなものだと思う。抽象的なつらさや苦しみを、病名・診断名というレンズを通して見る。すると、つらさや苦しみの像が、具体的に見えるようになる。

抽象的なつらさや苦しみ、手の施しようがないけど、具体的な像が見えてこれば、対処のしようもある。コレ、べつに障害当事者に限った話ではなくて、なんとなく生きづらい健常者の人でも、なんらかのレンズで、生きづらさの正体が見えてくることもある。

病名・診断名というレンズ、使わなくちゃ意味がない。このレンズは、生かすも殺すも自分次第だと思う。額に入れて、後生大事に飾っておく、まぁ大いに結構だと思う。だけど、それじゃあ状況はよくならない。レンズを活用して、自分のつらさを、苦しみを、困りごとを、つぶさにのぞきこむことが大切だと思う。

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