死にたい人へ

02.メンタルヘルスのこと
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ずっと「死にたい(希死念慮)」に取りつかれている。とりあえず事実として、私は過去に3回、自殺を図ったことがある。いまもまだ生きているので、3回とも失敗した。

1回目は、過量服薬(いわゆるオーバードーズ、OD)で自殺を図った。死ぬために、リーマス(炭酸リチウム)という向精神薬を、まとめて飲んだ。

このときは、特急列車のような「死にたい」が、始点から終点まで、一気にきた。2012年4月の日曜日、会社の寮で、ベッドに腰をおろして夕日を見ていた。西向きの窓から、いっぱいの陽射しが差し込んできて、とてもキレイだった。夕日を見た瞬間に「きょう、いまから死のう」そう思った。

当時は、仕事があまり上手くいっていなかった。毎日不満をつのらせていて、憂うつのゲージは日を追うごとに増していった。だけど、死ぬつもりはなかった。死を意識したこともなかった。なのにいきなり「死にたい」がきた。

「死にたい」のきっかけは、なんでもよかったんだと思う。「夕日がキレイ」じゃなくてもよかった。「ドライブして気持ちよかった」とか、「お風呂があったかかった」とか、「晩ごはんがおいしかった」とか、なんでもよかった。なんでもないことでも、自殺のトリガーになる。

リーマス、双極性障害(躁うつ病)治療のために用いられる薬なのだけど、扱いがすこしむずかしい。双極性障害のケアにリーマスを使うためには、血液中のリチウム濃度をコントロールする必要がある。リチウム濃度が低すぎると、効き目が出ない。しかし逆に、リチウム濃度が高くなりすぎると、中毒を起こして死ぬこともある。

ということをネットで調べて知っていたので、サクッとリーマスを大量に飲んだ。そのうち意識がなくなって、気づいたら病院に運ばれていた。閉鎖病棟に入院させられて、血中濃度は致死域に達していたけど、2日に1回のペースで人工透析をして、1週間ほどかけて血液中のリチウム濃度を減らしてもらった。おかげで、いまもなんとか生きている。

2回目は、首吊りで自殺を図った。2014年の4月か5月。そのとき滞在していたホテルのドアノブに、ベルトを輪にしてひっかけて、首をくくった。

当時は職場でパワハラにあっていて、毎日人格否定めいた詰められ方をしていた。仕事はできない、無能、役立たず、生きている価値がない、そんなことを言われ続けて、私も「生きていないほうが、いいのかな」と思わされていた。

「海が見える場所で死にたい」そう思って仕事をバックレて、海を見に行った。海を見たら死のうと思いながら、2週間くらい東日本をブラブラしていた。

道中では、絶えず「死にたい」と思いつつ、その反面、心のどこかで「生きていたい」とも思っていた。毎日、毎時、毎分、毎秒、「死にたい」と「生きていたい」とのあいだを行ったりきたりしていて、頭が大変せわしなかった。

「生きていたい」から出発した心は、鈍行列車のようにすこしずつ進んでいって、最終的に「死にたい」へ到着してしまった。

首をくくった経験のある人ならわかると思うんだけど、首をくくると、徐々に意識が遠のいていって、視界が真っ白なような真っ黒なような、ヘンな感じになってくる。お花畑? ではないけど、広い風景が見える。

目の前がぼんやりしてきて「ああ、死ぬんだな」そう思ったとたんに怖くなってきて、とっさにベルトをはずした。おかげで、いまもなんとか生きている。

3回目も、首吊りで自殺を図った。2014年の6月ごろ、またドアノブ。ドアノブ首吊り、たいした道具も設備もいらないし、とてもインスタントである。仕事をやめて、生きるあても、目的もなくなって、「もう生きていても仕方がない」そう思って死ぬことにした。

このときは、理路整然と「死にたい」と思っていた。どこで死ぬか。たぶん実家の自室なら、家族以外に迷惑をかけることはない。どう死ぬか。ドアノブ首吊りなら、経験がある。次は上手くいきそうだ。いつ死ぬか。今度こそ自殺をやりきりたいと思っていたので、家に誰もいない時間帯を選んだ。

快速電車が、決められた駅にピタッと効率よく止まるように、自殺の段取りを組んだ。道具を用意して、リハーサルをして、日時を決める。そして、実家の自室の部屋のドアノブに、ベルトを輪にしてひっかけて、首をくくった。

今回は、キチンと死ぬつもりだったので、視界がまっさらになって、気を失うまで首をくくり続けた。いったんは意識を失った。

しかし、キチンとくくれていなかったようで、しばらくしたらフツーに目が覚めてしまった。単に失神して終わったようだ。意識が戻って、うれしいやら悲しいやら、涙がボロボロあふれてきた。おかげで、いまもなんとか生きている。

1年ほど前も、漠然とした「死にたい」に悩まされていた。このときは、回送電車のようにグルグルとあてどなく、ただ「死にたい」という気持ちだけが頭のなかをめぐっていた。

「生きていたい」と「死にたい」とが、頭のなかで拮抗していた。なにかきっかけがあったら、4度目の自殺企図につながっていたかもしれない。このときは、ひたすら耐えてやり過ごした。おかげで、いまもなんとか生きている。

過去に3回自殺を図って、3回失敗する確率。計算したら1/4だった。死んでいた確率のほうが、はるかに高い。軽い言い方にはなるけど、生きてて本当にラッキーだ。

自殺を図ったときは、「死にたい」と強く思っていて、だから実際に自殺を図ったんだろう。自殺に失敗した当時は「残念」「悔しい」「もう生きていたくない」と思っていたかもしれない。

時が経ってみると、自殺に失敗して本当によかったと思う。3回中1回でも成功していたら、いまこうして生きていないわけで。「生きていてよかった」と思うということは、なんだかんだで命に、生きることに未練があったのだろう。

ひとくちに「死にたい」と言っても、いろんな「死にたい」がある。自殺企図の動機は、3回とも違う。毎回SNSとかに「死にたい」みたいな定型文を書いてたかもしれないけど、おなじ「死にたい」でも、毎回違う「死にたい」だった。

1回目のように、日々の憂うつがコップから突然あふれるような、特急列車のようにいきなりやってくる「死にたい」もある。

1回目は、突然死にたくなった。それまでは、自殺のことなんてまったく考えていなかったのに、突然「死にたい」が襲ってきた。情念も理論もない、衝動的に死にたくなった。

2回目のように、キツめの環境や境遇によって、鈍行列車のように、徐々に「死にたい」が高まってくることもある。

2回目は、仕事をバックレるときからハッキリと「死のう」と思っていた。各駅停車の終点だけは決まっていた。「死にたい」という情動だけはあった。ただ、自殺の方法やタイミングは決めないまま、ダラダラゆっくりと「死にたい」へ向かっていった。

3回目も、ハッキリ「死のう」と思っていた。そのために準備をして、段取りを組んで、自殺を企図した。計画的な「死にたい」だった。

3回目は、人生の先行きを悲観し、絶望して、快速電車のように秩序だって効率よく「死のう」と思い、自殺しようとした。一言に「死にたい」と言っても、いろんなパターン、いろんな感情がある。

1年前、4回目にいたる前は、明白に「生きていたい」と思っていた。なのに頭のなかは「死にたい」でいっぱいだった。

「死にたい」理由なんてひとつもないはずだし、本気で死ぬつもりもなかった。なのに「死にたい」が回送電車のように、頭のなかをグルグルと回り続けていて、たまに不本意な「死にたい」を吐き出さないと、気がおかしくなりそうだった。

「死にたい」の正体、まわりの人はおろか、本人も気づいていないことが多い。私も、自殺を企図した当時は「死にたい」で頭がいっぱいになっていて、「なぜ死にたいのか」「なにが『死にたい』と思わせているのか」について考える余裕がなかった。とにかく死にたかった。

私が最後に自殺を図ってから、もう6年経つ。6年経って、当時の「死にたい」について、ようやく言葉にできるようになってきた。1年前の「死にたい」については、いまだによくわからない。

「死にたい」の正体、「死にたい」に悩み、苦しめられているときは、ほぼ見えない。もしかしたら、「死にたい」ではなく「生きていたくない」かもしれない。

いずれにせよ、「死にたい」「生きていたくない」そのことで頭がいっぱいになっているあいだは、自分の感情を客観視することはむずかしい。私にはムリだったし、これからもムリだと思う。

いまでも、たまに死にたくなる。以前ほど回数は多くない、以前ほど強い思いではないけど、たまに「死にたい」に襲われる。本当は生きていたいのに、「生きていても仕方がない」「死んだほうがマシだ」という思いにとらわれる。こういうとき、どうしていいかわからず、ただひたすら悩んで、苦しんで、考えている。

「死にたい」「生きていたくない」への対処法。いまのところ、私はなにも思い浮かばない。しいて言うなら、眠剤でも飲んでゆっくり寝て、「死にたい」「生きていたくない」を先送りするくらい。無益な情報で申し訳ないんだけど、「死にたい」に対する有効な対処法があるなら、私も知りたい。

ただ、なにがあっても、自殺はしたくないし、やめてほしい。これは個人的な希望なんだけど、自殺してほしくない。自殺はつらいし、怖い。2回目の自殺企図、青森のビジネスホテルで首を吊ったとき、意識が薄れるなかで、それまで感じたことのない、ものすごい恐怖を感じた。死が間近に迫ってくると、本能的に恐れ、怯えてしまう。

自殺が「いいこと」なのか「悪いこと」なのか、私にはよくわからない。過去に3度も自殺に失敗したこと、いまでもたまに、すこしだけ後悔する。もし自殺に成功していたら……そこでなにもかもから解放されて、ラクになれたのかもしれない。なにかを抱えて生きるのは、つらい。

つらく、苦しい境遇だから、死んだらラクになれる、これはきっと正しい。私はいまもつらいし、苦しんでいる。「あのとき死ねていれば」ということを、何度も何度も考える。

反面、「死ねなくてよかった」とも思う。いまでも「生きていて楽しいです!」とはなかなか言えないけど、なんとか生きていたいと思う。日々の生活が、すこしずつ積み重なっていく、その繰り返しが美しい。朝起きて、コーヒーを淹れて、トーストを焼いて、タバコを吸って、そういう日常が大切だし、いとおしい。

自殺してしまったら、美しく、いとおしい日常ともサヨナラだ。私は、日常を手放したくない。だから、なんとか生きていたいと思う。だから、「自殺はイヤだ」と思う。

繰り返しになるけど、自殺がいいことか悪いことかは、私にはわからない。私自身、「死にたい」「生きていたくない」と思っていた時期があるし、実際に行動に移したこともある。いまでもたまに「生きていたくない」「死にたい」と思う。

そんな私が「自殺はよくないです」「自殺はいけません」「自殺はやめましょう」なんて言っても、なんの説得力もないだろう。死んだほうがマシな境遇、死んだほうがマシな環境というのも、あるのかもしれない。しかし、「自殺はよい・悪い」ではなく「自殺はイヤだ」ということを、強く思う。

よく「遺された人が悲しむから、自殺はやめよう」なんて言うけど、とても薄っぺらい、誠意のない言説だよなあと思う。私は以前「死にたい」という思いに苛まれ、「死ぬほど」苦しんでいた。

「生きていたくない」「死にたい」私はそこまで追い込まれていたのに、なぜ遺される人への気配りをしなくちゃいけないのだろうか? 私が自殺をしたら、遺された人が泣こうが悲しもうが後を追おうが、なにもかも無関係だ。

極論、生きているのは人ひとり、本人だけなんだ。親子だろうが、夫婦だろうが、親友だろうが、本人の生き死にに干渉する根拠はない。死んでしまえば、なにもかもおしまい。遺された人の悲しみなんて、自殺する本人には関係のないことだ。

生き死にを決めるのは、最終的に本人だ。本人が生きていたければ、生きていけばいい。本人が死にたければ……冷たい言い方になるけど、死ねばいい。本人が自殺すると決めたなら、それを止める権利はだれにもない。本人の命は、本人だけのものだ。

ただ、個人的には、やはり自殺はイヤだ。だれにも自殺してほしくない。生きていること、つらいかもしれない。苦しいかもしれない。だけど、つらい日々、苦しい毎日のなかにも、美しいもの、いとおしいものが、必ずあるはずなんだ。

美しいものや、いとおしいものを見つけること、砂漠で砂金を拾うような、途方もない作業かもしれない。しかし、日々の生活に目をこらすと、そこには私たちのかけがえのない暮らしが、ささやかかもしれないけど輝いている。

だからこそ、みんなに生きていてほしい。もし、ネットの向こうのあなたが自殺したら……あなたと私は、いずれ出会い、親しくなる可能性があるかもしれないのに、自殺したら、その可能性はゼロになってしまうになってしまう。

「生きていれば、いつかいいことがあるよ」なんてことは、とても言えない。たとえば私の人生。ロクでもないこと続きだったし、たぶんこれからもロクでもない人生になる。未来が明るくなる要素は、あまりない。

それでも、生きていたいと思う。ロクでもないなりに、なんとか生きている。日々の生活のなかには、美しいもの、すばらしいもの、尊いものがあふれている。そういうものに目をこらしていくと、私のなかの「死にたい」気持ちは薄れていく。

「死にたい」と思ったとき、まずなぜ「死にたい」のかを、努めて冷静に考えてほしい。解決できるものなら、解決しよう。たいていのことは、どうにか解決できると信じている。もし解決できないものなら……あとは本人のの意思ひとつに委ねられる。

身近な人が「死にたい」「生きていたくない」と言っているとき、「自殺はダメだよ」とか「自殺はよくない」みたいな、手垢のついた一般論・正論を返すのは、やめてほしい。

「自殺はダメ」「自殺はよくない」そんなこと、常識的に考えれば当たり前のことだ。教科書や、厚生労働省のウェブサイトなど、いろんなところで言われている。子どもでもわかることだ。「自殺はダメなこと」「自殺はよくないこと」それがわかっていても、「死にたい」に耐えられない、「死にたい」が抑えられない人がいる。

身近な人から「死にたい」と打ち明けられたら、まずその人が「なぜ死にたいのか?」「なぜ生きていたくないのか?」について、やさしく耳をかたむけてほしい。

「死にたい」「生きていたくない」理由、ボンヤリしてて見えにくいし、あったりなかったりするし、どうしようもない場合も多いけど……なにかしら自殺を避けるヒントが見つかるかもしれない。「死にたい」「生きていたくない」理由がわかれば、本人の意思も変わるかもしれない。

「死にたい」にも、いろいろある。ネット上の言説で「『死にたい』って言ってるヤツに限って死なない」なんてのを見かけたけど、「死にたい」と思う、「死にたい」と口にする時点で、自殺のサインは出ている。

そして、「死にたい」という意思表示してから、ささいなきっかけで、ほんの一瞬で、自殺につながることもある。ネットのくだらないシニックに踊らされずに、身近な人のささいなサインも見逃さないようにして、しっかりと話を聴けるようになりたい。

偉そうなことを言っているが、一昨年に友人が自殺したとき、私は、なにもできなかった。結局、友人のつらさや苦しみは、その人だけのもので、そこに私が介入する余地はなかったのだ。

私には、友人のつらさや苦しみが、理解できなかった。友人のつらさや苦しみを、外から、断片的・表面的に受け取ることしかできなかった。友人は死ぬほど苦しんでいたのに、それに気づけなかった。友人には死んでほしくはなかったけど、「死んでほしくない」とは、最後まで言えなかった。

「死にたい」「生きていたくない」と思う人たちは、「なぜ死にたいのか」「なぜ生きていたくないのか」を考え続けてほしい。つらく、苦しい作業かもしれない。でも、これはきっと必要な作業で、そして私はあなたに死んでほしくない。

私のように、憂うつのコップが溢れたり、「生きていたい」の線がプツッと切れたり、理屈で自殺したりしてほしくない。死なない努力、死なない工夫をしてほしい。

身近に「死にたい」「生きていたくない」という人がいる人には、どうか本人に寄り添って、「なぜ死にたいのか」「なぜ生きていたくないのか」を、やさしく探ってあげてほしい。根源的な原因がわかったら、気持ちだけでいいから、本人を助けてあげてほしい。

毎年2万人もの人たちが、みずからの手で命を絶っている。その影には、何十万人、何百万人もの「死にたい」「生きていたくない」を抱えた人々がいる。

そして、自殺した人、死にたい人、生きていたい人の数だけ、感情や理由が存在する。人が自殺する理由を考えること、それは、自殺する当事者だけではなく、もっと多数の幸福につながるのではないかと思っている。

SNSで、「死にたい」みたいに自殺をほのめかす投稿がされるのを見る。ネットの向こうで苦しんでいる人がいるのだと思うと、なんだかとてもつらくなる。顔も名前も知らない他人のことだし、よけいなお節介なんだろう。でも、つらい。

生きるのも死ぬのも、すべてあなたの自由だ。ただ、私は、あなたに自殺しないでほしいと思っている。私のゴミだめみたいな人生でも、美しいもの、キレイなもの、尊いもの、すばらしいものが見つかった。すべての人にとって、人生がそうあってほしいと願っている。自殺してほしくない、生きていてほしい。

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