自殺したくない

02.メンタルヘルスのこと
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過去、自殺を図ったこと(自殺企図)が、3回ある。1回目は、向精神薬のOD(オーバードーズ・過量服薬)で、このときは精神科の閉鎖病棟へ入院させられた。2回目・3回目は首吊りで、一回は未遂、一回は失敗した。

数ヶ月前まで、毎晩のように強い希死念慮におそわれていた。死の衝動に駆り立てられて、いてもたってもいられなくなる。あれこれ手を尽くして気をまぎらわせたり、ごまかしたりしたけど、最後は耐えるしかなくなった。

自殺企図の前科があるからというのもあり、希死念慮は個人的に非常に深刻な問題だった。いつ死ぬかわからない。それも、自らの手で自らを殺してしまうかわからない。死の恐怖に怯える、あるいは死の誘惑に抗う毎日だった。

最近は、いたって平和である。「死にたい」と願うこと、「死ななきゃ」みたいな焦燥感・切迫感を覚えることは、ほとんどなくなった。なにか生活に変化があったとかそういうわけではない。なので、この心境の変化は非常に不可解で気持ちが悪いのだけど……悪い変化ではないので、まあよしとする。

「喉元過ぎれば……」ではないが、いざ希死念慮が過ぎ去ると、当時の苦悶や苦痛のことが、まったく思い出せなくなってくる。こうして辛い記憶を忘れていくことも、人間の脳の機能なのだろう。しかし、またいつ希死念慮がおそってくるかもわからない。そのときのために私は、私を苦しめていたものの正体が知りたいと思った。

双極性障害を患って、もう8年が経つ。精神が健康だったころのこと、あまり思い出せない。だけど、双極性障害になる前は「死にたい」「消えてしまいたい」とは思っていなかった。健康な精神の持ち主だったと思う。つまりこの「死にたさ」は、単に双極性障害に由来するものなのだろうか。

もしかしたら、生活状況・生活態度に由来するものなのかもしれない。昨年秋に、勤めていた会社をやめた。それからしばらくは酒びたりの日々。精神面だけでなく身体面、そして経済面でもボロボロになっていった。

いまはお酒も完全にやめて、努めて規則正しい生活を心がけ、収支の管理もある程度はできている。生活が安定したから、精神も安定して、希死念慮も去っていったのかもしれない。

そもそも「希死念慮」とはなんなのだろうか。字面からだいたい想像はつくが……実体が見えない。以下は『デジタル大辞泉』からの引用である。

きし‐ねんりょ【希死念慮】

死にたいと願うこと。

[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。

https://kotobank.jp/word/%E5%B8%8C%E6%AD%BB%E5%BF%B5%E6%85%AE-683358

やはり「死を希(のぞ)む」という意味らしい。いろんなサイトで調べたけど「(事故等によって)死にたい」と思うほかにも「眠りから目覚めたくない」「消えてしまいたい」「どこか遠くへ行ってしまいたい」などの観念も、広義の「希死念慮」に含まれるらしい。

「希死念慮」に似た意味を持つ言葉で、「自殺願望」というのがある。

じさつ‐がんぼう〔‐グワンバウ〕【自殺願望】

自ら命を絶ちたいと考えること。自死を望むこと。→希死念慮

https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E9%A1%98%E6%9C%9B-683728

こっちの意味は明確で、「自殺したい」ということだろう。「自死」という言葉があるが、この言葉はあまり好きではない。自らの意思に則って自然に死が訪れることは、絶対にない。そこには、自ら死へ向かう意志と、そのための行為が存在するはずだ。自殺の本質は殺人である。自殺とは、自分で自分を殺すことだ。

話がそれたね。「希死念慮」の意味はわりと広くて、「いなくなりたい」みたいな漠然とした観念から、「死んでしまいたい」みたいな具体的な観念まで含まれる。そのなかで特に「自殺」を志向するのが「自殺願望」という理解をしている。

「死にたい」と思っても、人間なかなか死なないものだ。交通事故にあって死ぬ確率は低い。その他の事故に巻き込まれる、あるいは他者からの被害にあって死ぬ可能性だって、それほど高くはない。死を望んでも、死は向こうからはやってきてはくれない。

以前勤めていた会社で双極性障害になって、そのあと酷いパワハラにあった。そのころ、通勤途中で誰にも行き先を告げずに、一月ほどゆくえをくらませて、東日本を放浪したことがある。そのときは、毎日日記をつけていて、それを読み返すと、いまでも当時の感情がよみがえってくる。

あのとき、はじめはきっと「消えてしまいたかった」んだろう。誰も知らない土地へ行って、誰にも知られないままいなくなってしまいたい。多分そんなことを考えていた気がする。もしかしたら、まだどこかで人生をやり直せるかもしれない。そんな希望も、あったのかもしれない。

放浪の道中。八戸のビジネスホテルにて、ちょっとしたことがきっかけで、首を吊ろうとした。このときは「死にたかった」んだろう。やはり上手くいかないことへの絶望感、この先いいことなんてありゃしない、生きていてもムダだ、そんな諦念があった気がする。

家に帰ってきてから、なんとなくまた首を吊った。吊りが甘かったのか、一旦気絶して、そのあと普通に目を覚ました。このときも「死にたかった」んだと思う。仕事を失って、健康も失って、もうなにも残っていなくて、これ以上生きていく価値なんてないと、そう思っていた気がする。

それからいろいろあって、いまに至る。最近まで激しい希死念慮におそわれていた。「どうしても生きていたい」という思いと同時に「死んでしまいたい」という思いが湧いてきて、その相克に苦しんでいた。

おととし、妻と結婚した。妻は、とても素晴らしい人だと思う。妻に寄り添っている点において、私は私自身に価値を見出すことができる。可能なら、妻と添い遂げたい。

では、妻と離れたら? 双極性障害を持っているからだとか、社会経験がすくないからだとか、仕事をしていないからだとか、もういい歳だからだとか、そういう個別・具体的事実を引き算すると、なんとなく私は、私自信を無価値だと思ってしまう。

価値のない人間は死ぬべき、みたいなことは、もちろん思わない。そもそも、人間に価値をつけることなど、できようもない。みなそれぞれ、かけがえのない存在で、それぞれに生きていることは尊い。誰だって、生きていることは素晴らしい。はずなのに、私自身に関してだけは、「生きている価値がないのだから、死ぬべきでは」という考えが出てきてしまう。

以前の記事でも書いたけど、私はたぶん自分のことを愛していないし、自分のことを信頼していない。妻や友人たちのことは愛せるし、信頼できるのに、私自身のことは愛せないし、信頼できない。これがどうしてかは、わからない。

最近は、希死念慮を感じることはなくなった。ただ、これがいいことなのか、悪いことなのかが、よくわからない。だって、認知の根っこはなにも変わっていないはずだから。そのうち突然、大きな希死念慮の波にさらわれて帰ってこられなくなる。いまは、そんな恐怖を感じている。

「希死念慮を感じなくなって、ハッピー」ではないんだ。感情や情動のもっと深い部分、人格の根っこから、希死念慮を取り払わなければならない。こう書くと脅迫的な感じがするけど、私はそれくらい深刻に、自分の希死念慮、自分の自殺について考えている。

希死念慮と自殺願望、そして自殺。すべて地続きで、グラデーションで、根源は同じだと思う。心の奥に、なんらかの原因があるはずだ。たとえば私で言えば、双極性障害の症状がトリガーとなって、漠然とした「生きづらさ」を感じるようになった。

双極性障害になる以前にできていたことが、できない。以前のように上手くいかない。この「生きづらさ」は、社会生活のなかで雪だるまのように膨らんでいき、そして「これ以上生きていたくない」と思い至ったんじゃないかと思う。

会社をやめて、社会生活から逃れ、「生きづらい」環境からは解放された。しかし今度は、生きていくための方法がない。「生きていたいのに、生きていけない」ことによって、激しく苦しんでいる。

先週くらいまで、深刻な不眠に悩まされていた。それまで何年も安定して効いていた睡眠薬が、途端に効かなくなってしまった。医師に相談すると、症状に波のある双極性障害患者では、突発的な不眠はよくあることらしい。ためしに、睡眠薬の処方をいくつか変えてみたら、また問題なく眠れるようになった。逆に、薬の処方によっては、過眠の副作用が出ることもある。

不眠と処方変更、今回が初めてのことではない。これから先、仮に就職したとして「寝不足なので仕事になりません」「眠いので仕事へ行けません」こんな言い訳ばかりしていないといけないことになる。問題は、睡眠だけではない。一事が万事この調子である。

いまの暮らしには、とても満足している。日々のことをして、ときどき外出して、妻とのんびり暮らす。理想的で幸福な暮らしだから、いまの暮らしのまま収入を得られたらと切に願っている。しかし、残念ながらそんなうまい話はなさそうだ。現実は厳しい。いつかまたあの「生きづらさ」のなかへ戻らなければいけないのだろう。

率直に言って、私は社会のなかの弱者だ。他者が当たり前にできることが、私は当たり前にできない。他者が当たり前に耐えられることが、私は当たり前に耐えられない。家にひきこもっていれば、強い弱いなんてこと考えなくてもいい。しかし、家の外、社会に出れば、そこで己の弱さを思い知らされ、打ちのめされることになるんだろう。

弱者である自分は、これから一生「生きづらさ」のなかで生きていかなければならないのか? そう考えると、たしかに生きていくのがイヤになる。せっかく消えかけていた希死念慮が、むくむくと頭をもたげるのを感じる。

でも私は、生き方を考えなきゃならない。なぜなら、死にたくないので。単純な理由だけど、いまは真剣に死にたくない。昨年、友人が自殺した。理由はわからないから、なんとも言えない。だけど、私は彼に死んでほしくなかった。彼が死んでしまって、すごくイヤだった。事故とか事件なら、まだ飲み込めたのかもしれない。でも、自殺はイヤだった。彼が死んだことが、いまでも胸の奥につかえている。

「生きる楽しみを探すのが人生の妙味」とか、「人生とは自分で切り拓いていくもの」とか、そんなこと言うつもりは、まったくない。身もフタもない言い方になるが、暗くて苦しいだけに終わる人生は、絶対にある。生きていくなかで、どうしようもないドン詰まりも、絶対にある。断言していい。

たとえば私の状況、30代だから、まだ若いのかもしれない。しかし、双極性障害にくわえて発達障害(ADHD)も見つかった。会社をやめてから、もう1年経とうとしている。自殺未遂3回。最近も、死にたくてたまらなかった。どうしようもない状況。

「生きてさえいれば、いつがいいことがある」なんてことも、思わない。いままでの人生、つらいことのほうが多かった。状況は、徐々に悪くなっていってる。つまりこれからの人生は、もっとつらくなる可能性のほうが高い。

それでも、生きていたいと思う。「死にたい」と願う隙間に、生きていることの美しさが、ときおり見える気がする。毎日わずかずつ、川底の砂金をさらうようにわずかずつだけど、それでも自分の生活が、人生が積み重なっていくのを感じる。それをムゲにしたくない。

他の人から見たら、なにもないような私の一日。私からしたら、毎日が特別な一日で、毎日いろんなことが起こっている。そのひとつひとつに、意味を見出したい。そのひとつひとつに、美しさを見出したい。

おなじように、すべての人の人生が、美しいものであってほしいと思う。以前「自殺してほしくない」という記事に書いたので、こっちも読んでほしい。自殺したくないし、誰にも自殺してほしくない。死んだら全部終わりなので。

自殺、いいか悪いかは、知らない。それぞれに感情があって、それぞれに事情があるので。でも、「死にたいなら、勝手に死ねよ」とは言えない。なぜなら、死なれたらイヤなので。どこかで誰かが自殺したニュースを聞くたび、いまでも本当に悲しくなる。

彼/彼女にも未来があったはずだ。彼/彼女なりに楽しみながら、苦しみながら生きていったはずだ。彼/彼女は、自身のかけがえのない、美しい物語を紡いでいったことだろう。もしかしたら縁あって、どこかで出会ったり、親しくなったりしたのかもしれない。自殺してしまったら、そういう可能性はすべて失われてしまう。

私は、私の人生を、美しいものにしたい。いまはどうしようもない状況だけど……たとえば、朝ちゃんと起きられたとか。ジムへ行けたとか。作った食事が美味しかったとか。妻が喜んでくれたとか。部屋に差し込む光が綺麗だったとか。秋風が気持ちいいとか。夜ちゃんと眠れたとか。そういう小さな美しさを集めていたい。たくさん集めていたい。ずっと集めていたい。

だから、自殺したくない。死んだらそこで終わってしまう。これから先、どうせくだらない人生になるんだろう。妻には、迷惑ばかりかけるに違いない。きっとなにかを成すことも、なにかを得ることもなく死んでいく。それでもいいから、生きていたい。毎日自分なりに生きて、最期に「これが私の人生だ」と胸を張って言えれば、それでいい。

希死念慮や自殺願望、「死にたい」と思うことは、仕方ない。はじめのほうで「完全に取り払いたい」と書いたけど、やはり人の感情だから、容易に操作できるものではない。仮に希死念慮の原因がわかったとしても、経済的・社会的な要因だと、なかなか対処のしようがない。

たとえばいまの私なら、死ぬまで食べていけるだけのお金があればオールオッケーな気もする。しかし、現実にはお金はないし、そしてものごとはきっとそれほど単純ではない。

「死にたい」と思うこと、それを表現することは、自由だ。死ぬこと、死んでからのことを夢想したり、書き出したりしてみてもいい。たとえば、誰が泣いて誰が笑うか、葬式の様子はどうか、死んでから家族はどう生きていくのか。私もよくやるけど、いろんな意味で、けっこう悲しくなる。

でも、自殺はしたくない。事故や病気で死ぬのは、仕方ない。ただ、自殺は絶対にしたくない。いままでは、過労、双極性障害、パワハラ、自殺未遂、無職と、ロクでもない人生だった。きっとこれからも、まだまだつらいことがあるんだろう。

でも、ロクでもない人生でも、生活はやはり美しい。毎日些細なことで、心が動く。生きていると感じる。そういうことが連綿と連なって、私の人生ができていく。本当に素晴らしいことだ。

死ぬまでずっと生きていたい。死ぬときは、なんであれ「よく生きた」と満足して死にたい。美しい生活をたくさん集めて「これが私の人生だ」と胸を張って言いたい。妻が悲しむとか、親が悲しむとか、そういう誰かのためでなく、自分が生きていたいから生きていたい。それだけは忘れないようにしたい。

死ぬのは嫌だ。自殺したくない。

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