「生きる」を誰が決めるのか – 生命倫理と医療・経済

04.じんせいのこと
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2月12日目の夜、りたりこ研究所OPEN LAB主催のカリキュラム「『生きる』を誰が決めるのか – 生命倫理と医療・経済」に参加してきた。イベントをご紹介いただいたLITALICOの鈴木悠平さん、ほんとうにありがとうございました。

この日の登壇者は3名で、順番にプレゼンをしたあと、パネルトークへうつる流れ。

1人目のパネラーは、川口有美子さん。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母上を介護するなかで、ALSの当事者活動にかかわるようになった方。

2人目のパネラーは、林伸彦さん。医師として、出生前診断のメリット・デメリットにジレンマと問題意識を持ち、NPO法人を立ち上げ、ピアサポート活動などを行っておられる方。

3人目のパネラーは、立岩真也さん。立命館大学の教授、社会学者として、重度障害のある方の自己決定権や生存について、長年考えられてきた方。

有料のイベントなので、それぞれの方が、どういう話をされたか、詳細ははぶいて、主に私の感想、考えたことについて書いていく。

まず、いままでの私のなかで、生死の自己決定といえば、「自殺」だった。自殺を止める法律、刑法などには存在しないはずだし、自殺は権利だと思う。

私は、双極性障害というふたつの精神障害を持っている。おもに双極性障害のうつ状態におちいっているとき、頻繁に死にたくなる。心では生きたいと思っていても、頭は死ぬことでいっぱいになる。

私自身は、自殺はしたくないし、だれにも自殺してほしくない。ただ、友人や知人から「死にたい」と言われたとき、私はなにも言えない、黙りこむしかない。

尊厳死もそう。たとえば難病で身体の自由がきかなくなった人が、人としての尊厳を保ったまま死にたいと言うのであれば、それを止めることはできないんじゃないか。

先日妻から「もし私が病気で動けなくなったら、延命はしないでね」と言われた。たとえば妻が、気管を切開しないと生きられない、人工心臓がないと生きられない、認知症になった、あるいは植物人間になったとき、そこで妻を死なせることを選択できるだろうか。

私は、たぶんムリだと思う。妻のことを愛しているし、どんな形であれ、妻には生をまっとうしてもらいたい。たとえ意思疎通ができなくても、私のことがわからなくなってしまっても、私にとって妻はひとりしかいない人だから、死ぬまでずっと生きていてほしい。

でも、これもたぶん私のエゴなんだよな。妻自身が「死にたい」と思っていたら、それを尊重して延命しないのが、愛なのかもしれない。

たくさんのASL患者を見てこられた川口さんが「生きることに意味など要らないと言われるが、人は生きることに意味を求めてしまう」とおっしゃっていたのが印象的だった。私も、生きることに意味など要らないと思う。人は生まれたから、死ぬまで生きていくんだと信じているし、たとえ妻が「死にたい」と願ったとしても、私は私のなかに、勝手に妻が生きる意味を見出してしまうだろう。ただ、それは妻の意思を無視しているかもしれない。はたして「人の生きる意味」「愛」とはなんなんだろうか。

林さんが述べた、出生前診断にしてもそう。心に残っているのが、出生前診断で胎児に障害があることがわかった場合、産んでも堕ろしても、結局まわりからは「かわいそうなことをした」と見られるという話。そんなことがあってたまるかと、すこし憤慨しながら聴いていた。

障害があるからなんだ、障害者だってひとりの命だし、生きていくことは素晴らしいじゃないか。そもそも「障害者はかわいそう」なんていうのは、現行の社会が決めたステレオタイプだし、障害者がその人らしく生きる、そういうふうに思考と社会をシフトさせようというお話には、強く共感した。

自分の話になるけど、私も先天的な身体障害を持っている。左腕の一部にマヒがあって、いまでもうまく左腕を動かせない。生まれた直後は、左腕だけ「バンザイ」をした状態で、幼児のころはそのまますごしていた。

両親が気長にリハビリをしてくれたおかげで、いまは人からはあまりわからない、日常生活にはさしてさしつかえのない程度までよくなってきている。ただ、それまでには、やはり苦労もおおかった。

障害のある胎児、障害が見つかった時点で「産まない」と選択することも、ひとつの権利だと思う。いまの社会だと、障害は障害でしかない、間違いなく不幸だし、障害当事者として「障害があっても、幸せに生きられます」とは断言できない。

ただ、この世に芽吹いた命が、どんな理由であれ、ついえてしまうのは悲しい。話にもあった無脳症など、現代の医療水準では救えない命は別として、ダウン症でも、先天的疾患でも、奇形でも、生きていてほしいと願うのは、わがままだろうか。なんの責任も負えないし、わがままなんだろうけど、それでも私は、それぞれの生をまっとうしてほしいと思う。

立岩さんのお話では、相模原で起きた、津久井やまゆり園大量殺傷事件についてもふれられた。仏教で「生病老死」あるいは「四苦八苦」とも言われるが、人の生は苦にあふれていて、だれもそれから逃れることはできない。だれだって歳をとるし、不慮の事故や病におちいるし、最後はみんな死ぬ。

やまゆり園事件の犯人、植松聖は「障害者は不幸しか生まない」と言って、それに共感をおぼえる人もすくなくないが、そもそも健常者・障害者とはなんなのか。幸・不幸とはなんなのか。

人間だれしも、歳をとれば身体も脳もおとろえる。時間の経過とともに、障害者に近づく、あるいは障害者になるのに、そのことに対してみなあまりにも無自覚すぎる。「障害者は不幸しか生まない」のだったら、藤子不二雄の短編でもあったように、一定年齢をこえた人口は間引くべきか? そうじゃないだろう。

「障害者は不幸しか生まない」という言葉の背景にあるもの、私は知りたくもない。たぶん、いまの社会に対する茫漠とした不安があったのではないかと、立岩さんは言っていた。たしかに、世の中はよくない。みんな余裕がないし、社会保障費は増え続けるなか、個人は日々の暮らしに必死にしがみついている。

ただ、本当にそうなのだろうか? むかしとくらべれば、治安はよくなっているし、衛生医療もはるかに進歩しているし、総体として生活は豊かになっているのではないか? 立岩さんは「根拠のない不安について考え、答えを見つける」ことが大切だと語っておられた。マスメディアでもなんでもそうだが、とにかくこの世は問題まみれのように語られる。実際そうなのかもしれないが、そうでないのかもしれない。我々は、ちゃんと考えられているのだろうか。

それに、いくら世の中が不安だからといって、障害者を殺すのは、あまりにも安直だろう。障害者のグループホームなどには、近隣住民から建設反対の声があがることもおおい、障害者を社会から排除しようとする向きが強いが、立岩さんの言葉を借りるなら「人が『住みたい』という時に、『住んではいけない』などは、よほどの理由がなければ言ってはいけないこと」し、そんなことは居住移転の自由、あるいは憲法で定められた権利うんぬんを持ち出さなくても、自明の理としてわかる。というか、わかってほしい。

立岩さんは、「人が生きていくこと」について、ずっと考えてこられた方らしい。立岩さんの「生きたい人が生きていく」「大変だけど、がんばろう」という言葉が、心に残っている。人が生きることは、ほんとうに大変なことだ。だけど、がんばって生きていくのがいいと思う。

立岩さんはわりと自著の宣伝をされていたが、タイトルを聞いただけでも魅力的な著書がおおかった。ご自分でもおっしゃっていたことだが、長い、あとたぶん高いので、時間と金銭に余裕ができたときには、ぜひとも読んでみたい。速筆な方のようで、すごい量の著作があった。うらやましい。

パネルトークの内容をまとめる自信はないので割愛するが、最後に質問コーナーがあった。司会の鈴木さんが「ご質問のある方、どうぞ」と投げたら、会場がスン……となっていたので、せっかくだから質問してみた。

私は、2年ほど前に友人を自殺で失っている。また、自身も定期的につよい希死念慮におそわれて、とても悩んでいる。昨年末まで開いていたイベント「精神疾患 匿名の部屋」でも、「死にたい」という思いを抱えた人は、とてもおおかった。

なので、きょうの本筋からは離れる、トンチンカンな質問だとわかりつつ、3名のパネラーの方々の意見がどうしても聞きたくて、「自殺したいという人に、どう声をかけるか? どういう態度をとるか?」という質問をしてみた。

はじめに答えてくれたのが、立岩さん。立岩さんの答えは「とにかく繰り延べにして、先送りしろ」とのことだった。すごく納得がいく。死ぬことを先送りにしていれば、いつかは自然と死ぬ。

それと、「なぜ死にたいか」を考えること。立岩さんいわく、人がみずから死ぬ理由は、そうおおくないらしい。たとえばお金や病気や人間関係、そういうものがほとんどだと思うが、それについて考えることが大切だと言われた。

次に答えてくれたのが、川口さん。川口さんは、相談者・支援者目線から、「人や警察を頼る」と答えてくれた。川口さんも、過去に知人から自殺をほのめかされて、慌ただしくされたことがあるらしい。そのときは警察を頼ったそうなのだが、「だれかを頼る」というのは、たしかに有効だなと思った。

反面、「頼る人がいない人」というのも、世の中には多数いるわけで、そういった人々に対するケアについては考えさせられた。「いのちの電話」は、つねに混線状態らしく、人は死の際にあっても、いや、死の際にあってこそ、誰かを頼りたくなるのだろう。

最後に答えてくれたのが、林さん。私は個人的に、林さんの言葉がいちばんしっくりきた。林さんは、おそらく悩みながらだが、「止められない」と言った。自殺もひとつの生き方であって、それを選択する以上、他人は口出しできない、そういう意味だと思う。

私の友人が自殺したとき、友人とはすこし疎遠になっていて、ひさびさの連絡が訃報だった。しかし、じゃあふだんから親しくしていたら自殺を止められたかといえば、たぶんムリだったと思う。

「生きる」を誰が決めるのか、とてもむずかしい問題だと思った。今回のイベントは、医療の進歩によって難病患者の延命が可能になった、でもそれっていいことなのだろうか? という問題提起であると思っていて、けして人が長生きすること、そのための技術を否定する趣旨ではない。

今回の話を聞いて、いちばんむずかしいと思ったのは、「本人が生存を望んでいるかがわからない状態で、まわりの、とくに身近な人々はどうすべきか」という問題だった。

たとえばALSであれば、症状が進行すると、TLS(Totaly Locked in State)といって、意思疎通がはかれない状態になることもあるらしい。胎児の出生前診断にしても、胎児に意思確認をすることは不可能だろう。そして、ALS患者も、胎児も、どちらも自らの手で死を選択することはできない。

そういうなかで、生存の意思決定がまわりに委ねられる。これは大変な負荷だと思う。生存を選択すれば、コストがかかる。死を選択すれば、おそらく長いあいだ罪の意識に囚われることになるし、ひとつの命が失われたという事実が残る。どちらを選んでも、結局は苦しむことになる。

林さんが「中絶は最後の選択肢」とおっしゃっていた。自殺もそうで、死ぬまえにやるべきことは山ほどあるのに、なぜか我々は死を選んでしまう。林さんは「選択のために、適切な情報提供が必要」とも述べていたが、これは本当にそのとおりで、知らないがゆえに起こる悲劇というのは、すくなくないと思う。

それから、「生きる意味」あるいは「生きる価値」についても、もっと掘り下げていきたい。先に「生きる意味なんてなくていい」と書いたけど、川口さんがおっしゃったとおり「人間は生きる意味を求めてしまう」もので、それがたとえば人間関係だったり、愛だったり、契約だったり、経済だったりするんだろうけど、私はやはり、意味なんてなくても、生きていてほしい。たとえ貧しくても、寝たきりでも、障害を持っていても、意思疎通ができなくても、だれからも必要とされなくても、ただ生きていてほしい。

川口さんから「(ALS患者の)病人のぬくもり」という話を聞いたとき、「なぜもの言わぬ患者の声を聞いてしまうのか」と、強烈な違和感をおぼえたのだが、たぶんここに大きなヒントがあるのだろう。生きるということに価値をつけてはいけない、生はひとしく尊いと願う反面、自分のなかにある「生きる価値がない」「死にたい」という思いを否定できない。自己に矛盾を抱えながら生きることはしんどいことだけど、これからもこの矛盾と真摯に向き合っていこう、そう思った。

答えは、まだ出ない。もしかしたら死ぬまで出ないのかもしれないけど、考えることをやめてはならない、そんな問題だと思った。参加してほんとうによかった。イベントを紹介いただいた鈴木さん、パネラーの立岩さん、川口さん、林さん、ほんとうにありがとうございました。

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