許す

04.じんせいのこと
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どうしても許せない人間がいる。2人いる。

ひとりは、私の祖母。よくある話だけど、私の母をいびり続けていて、母はうつ病になった。母が食事を作れば「味が濃い」「食えたもんじゃない」「殺す気か」などと文句をつける。部屋のすみのホコリを指でぬぐっては、「掃除もロクにできないのか」と因縁をつける。そのくせ、自分はなにもしない。

私が実家にいたときも、祖母とは何度も衝突した。祖母の話を無視すれば、「オメェ、ツ〇ボけ?」と言われ、祖母の存在を無視すれば、「テメ、メ〇ラけ?」など、古い差別用語を使って、私を罵倒してきた。

祖母はいま、認知症になって、特別養護老人ホームに入っている。祖母が生きているせいで、毎月すくなくない額のお金がかかるし、両親の自由が奪われている。はやく死んでほしい。

ふたりめは、新卒の会社で私にパワハラを加えてきた後藤。パワハラの詳細については、別の記事に書いたけど、毎日5~6時間、公衆の面前で私を詰める。詰めている時間以外は、私のことを徹底的に無視していた。

「使えない」「役立たず」「無能」「お荷物」「給料泥棒」そんな言葉を毎日浴びせられて、心が参ってしまった。最終的に、自殺する一歩手前まで追い込まれた。

後藤の住所は、いまでも保存してある。刑法で殺人は禁止されているので、殺しはしないけど、いまでも殺しに行きたいほど憎い。はやく死んでほしい。

私にとって、祖母も後藤も「生きる価値のない人間」「要らない命」である。もし私が命の選別をするとしたら、このふたりは真っ先に殺す。このふたりのことは、絶対に許せないし、生を否定したい。はやく死んでほしいし、なんなら私が殺してやってもいい。

反面、「すべての人には幸福に生きてほしい」という思いもある。「すべての人」なので、祖母も後藤も例外ではない。ふたりにも、ちゃんと幸せに生をまっとうしてほしい。生をまっとうすべきだと思う。ただ、祖母と後藤には、みじめに、苦しんで死んでほしい。ここに矛盾が生まれるように見える。

矛盾が生まれるように見えるのだが、じつはまったく矛盾していない。「すべての人には幸福に生きてほしい」という理念、願いは、一般的で普遍的な、公共の感覚だ。「かく生きるべし」というスローガン、大きな目標である。

「憎い」「死んでほしい」「殺したい」というのは、一般的でもなければ、普遍的でもない。私の、祖母や後藤への憎しみや殺意は、ごくごく私的なものだ。優生思想とか、選民思想とかは、一切関係ない。個人的な体験から芽生えた、個人的な感情でしかない。

(人類一般に対する)「生きていてほしい」という思いと、(祖母や後藤に対する)「死んでほしい」という思いとでは、レイヤーが違う。「生きていてほしい」という思いは公共のもので、「死んでほしい」という思いは私的なものだ。

ダブルスタンダードのように見えるかもしれないけど、私のなかではなにも矛盾していない。一貫して、「(祖母や後藤を含む)マクロな人間」に対しては「生きてほしい」と思っているが、「(祖母と後藤という)ミクロな人間」に対しては「死んでほしい」と思っている。

みなさんも、ひとりかふたりぐらいは「コイツ、死なねえかな~」「殺してやりてえ」と思う相手、憎い相手がいるんじゃないかな。その相手のことを思い浮かべて「人の死を願うのはよくない」「優生思想・選民思想におちいってはいないか」「命の選別をしてはいけない」と悩む優しい人も、なかにはいるのかもしれない。とくに「殺したいほど憎い相手」が、高齢者や障害者の場合。

優生思想や選民思想が、社会全体の問題であることは、間違いない。優生思想や選民思想は、明らかに間違っている。すべての人はひとしく生きるべきだと思うし、健常者であれ、障害者であれ、若者であれ、高齢者であれ、男性であれ、女性であれ、幸福な生を希求する権利がある。でも、それはあくまで公共・社会での話である。

個人で見てみると、人間関係の軋轢や衝突から「死んでほしい」「殺したい」相手の生を否定したくなる感情が出てくることもあるだろう。これはあくまで個人の感情の問題である。これを、公共の感覚、優生思想や選民思想と結びつけるべきではない。

祖母のことも、後藤のことも、いまだに許してはいない。憎たらしいし、死んでほしいし、殺したい。これはべつに私が「命の選別」をしているのではなく、単なる怨恨、復讐心によるもの、私的な感情だ。社会にはびこる優生思想や選民思想とは、一切関係がない。

憎い相手を、許す必要はないのだ。憎しみは憎しみとして、自分のなかに大切にとっておけばいい。許せないなら、それでいい。あなたの憎しみは、きっと個人的な体験からきているものだから、優生思想とか選民思想とかは関係ない。単にあなたがソイツを個人的に憎んでいる。それだけの話だと思う。

「ソイツが生きていることが許せない」「ソイツに死んでほしい」という気持ちは、個人的な感情の問題であって、優生思想・選民思想といった公共の感覚とは、まったく別の問題だ。あなた個人が許せないのなら、許せないままでいいんだよ。気が済むまで憎み続ければいいんだよ。殺人は刑法で禁じられているけど、内心の自由は憲法で保証されている。

私は、基本的に博愛主義者だ。公的な理念として、すべての人に幸せになってほしいと思っている。これは、公共の感覚だ。ただ、人の好き嫌いは激しい。嫌いになった相手のことは憎々しく思っているし、できるかぎり不幸になってほしい。これは私の、私的な感情だ。

「すべての人が生きられる社会」というのは、ひとつ公共の理想だと思う。ただ、そこでみんなが仲良くする必要はない、憎しみあったっていい、許せなくてもいいのだ。みなさんにも「死んでほしい人」のひとりやふたりくらい、いるでしょう。いまでも憎い人も、いるでしょう。絶対に許せない人も、いるでしょう。

私は、祖母と後藤が、いまでも殺したいほど憎い。だけど、祖母と後藤を殺すようなことはしない。なぜなら、「すべての人が生きられる社会」という、公共の感覚・公共の理念があるから。公共の理念として、人間はみなひとしく生きるべきなのだから、殺すことはできない。

しかし、「すべての人が生きられる社会」という公共の理念があっても、「憎い」「死んでほしい」「殺したい」という私的な感情を否定することは、したくない。

この「憎い」「死んでほしい」「殺したい」という感情は、優生思想や選民思想という大きなものとはまったくべつの、もっとプリミティブで、個人的な感情だ。個人的な体験から「憎い」「死んでほしい」「殺したい」と願う、じつに人間的でいいと思う。

私は、祖母のことも後藤のことも、死ぬまで許さない。はやく死んでほしいし、葬式には花輪を出したいし、死んだら祝電を送りたいし、墓に小便をかけに行きたい。やらないけど。それくらい憎んでいる。この憎しみを捨てるつもりはないし、許すつもりもない。墓のなかまで持っていくつもりだ。ときおり憎しみに身を焼かれてつらくなるけど、それでも絶対に許さない。

「許す」ことは、とてもむずかしい。ムリに許そうとすることで、自分の感情を抑圧したり、否定したりすることにもつながりかねない。憎い相手を許す必要はない。憎しみを抱えて生きていくのも、ひとつの人生だ。

人を許すこと、美徳のように語られることも多いが、決していいことばかりではない。公共の感覚と、個人の感情を混同してはいけない。公共の感覚では「すべての人は等しく生きるべきだ」と思っていても、個人の感情では「許せない」「憎い」「殺したい」と思い続けることは、マトモな生き方なんじゃないだろうか。

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