ALS嘱託殺人事件 – 生きる権利、死ぬ権利

02.メンタルヘルスのこと
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ALS患者に対する嘱託殺人の事件が起こった。以前ある勉強会で「ALS患者が生きるということ」について話を聴いていたので、強い関心を持った。勉強会へ誘ってくれた鈴木さんの記事も読んだ。

ALS嘱託殺人事件 – 安易な「安楽死」議論に逃げる前に

ALS嘱託殺人事件 - 安易な「安楽死」議論に逃げる前に(鈴木悠平) - Yahoo!ニュース
ALS当事者の依頼で薬物投与をした医師の嘱託殺人事件。拙速な「安楽死」議論を行うことの危うさを認識し、ALSになっても「生きられる」社会をつくるための技法や事例を広げていくことが大切です。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)、端的に言ってしまえば、身体の筋肉が少しずつ動かなくなる難病である。症状の原因は、筋肉自体でなく、筋肉を動かす神経にある。筋肉を動かす神経が障害を受けた結果、単に手足が動かなくなるだけでなく、呼吸や発声、嚥下(飲食物を飲み下すこと)なども困難になる。

ALSは進行性の病気で、一度なると症状が改善することはなく、徐々に身体の自由を奪われていく。進行を遅くする薬はあるそうだけど、根治はしない。

さて、京都のALS患者を、東京と宮城、ふたりの医師が「殺した」。この件について、私は明らかに「嘱託殺人」だと考えているので「殺した」という表現を使う。

この事件が起こってから、しきりに「安楽死」「尊厳死」が取りざたされるようになった。「ALS患者は生きているのがつらいだろうから、死なせてあげるのが人の情け」ということなのだろう。

私はALSではないのだけど、双極性障害(躁うつ病)という精神障害の影響で、過去に「死にたい」と思ったことは幾度となくもある。実際の行動に移したことも、何度もある。私の場合、身体が動かせないALS患者と違って、自分で主体的に「自殺」を選択できるから、何度も死のうとした。

本人からしたら「死んだほうがマシな生」というのは、たしかにあると思う。私が自殺を図ったときは、毎回「生<死」だった。家族も医師も、誰も助けてくれなくて、「死ぬ」以外の選択肢がなかった。

死にたかった時期に「安楽死」とか「尊厳死」とかを持ちかけられていたら。あるいは誰かから自殺をそそのかされていたら。多分コロッと死んでいたと思う。

いまは、死にたいとは思わなくても、生きることに強い困難さを感じている。もしかしたら、死んだほうが楽なのかもしれないな。そんなことも考える。死と生のはざまを、行ったり来たりしている。

ALS患者の場合、問題はもっと複雑である、病状が進むと、身体が動かなくなっていき、自殺は困難になる。また、コミュニケーションも取れなくなるため、「死にたい」という意志を周囲に伝えることも困難になるからだ。

そこにつけ込んだのが、容疑者である医師ふたりだと思う。おりしも患者は視力を失ったばかりのころ、その絶望は私が推し量れるものではない。心から「死んでしまいたい」と思っていたのかもしれない。そんなところへ「死ぬ方法がありますよ」と持ち掛けられたら……それにすがってしまうのも、ムリはないと思う。

ただ、繰り返しになるけど、これは「嘱託殺人」だ。「安楽死」とか「尊厳死」とは関係ない。タダの殺人だ。安楽死や尊厳死にまつわる法律、いまの日本にはないので、単なる嘱託殺人ということになる。それに、本件が当事者の意を十分に汲んだものだとは思わない。

ALSにしても、精神疾患・障害による希死念慮にしてもそうだけど、決して「死にたい」とだけ望んでいるわけではないと思う。根底にあるのは「生きることの困難さ」であって、それが当事者を死に向かわせている。

「本当に死にたい人などいない」というと言いすぎかもしれないけど、人はみな生きたがっているし、生きるべきだと思う。それを阻害しているのが「生きていくことの困難さ」であって、生きることが困難でなければ、しっかり生きていたい。少なくとも、私はそう。

死にたい人の背中を押すのはカンタンだ。今回の容疑者ふたりのように、死ぬための薬を打ってやればよい。だけど、死にたい人の背中を押して死に追いやるのは、果たして正解なのだろうか。

死んだら、すべて終わりだ。「安楽死」とか「尊厳死」とか言えば聞こえはいいけど、人を死に追いやる、人の生を終わらせていることにはなんら変わりない。どんな事情があろうと、単なる殺人だ。その前に、やるべきこと、議論すべきことがあるんじゃないか。

先の記事を書いた鈴木さんは「『生きる技法」をもっともっと社会で共有すること」が必要だとおっしゃっていた。私もそう思う。社会のなかで、人はさまざまな要因から死に追いやられる。疾病、障害、貧困、人間関係など。死に追いやられるなかでも、逃げ道を探り、生き延びる方法を考えなければならないと思う。生きていくことの困難さを、取り払わなければならないと思う。

私は「安楽死」「尊厳死」に反対の立場ではない。一部賛成している。ただそれは、本当に最後の手段なんだ。「死」を選んだ時点で、なにもかもがおしまいだ。生きる方法がある、生きる技法を駆使できるうちから、安易に人を死に追いやる・人に死をそそのかすべきではない。

人の死は重い。死は不可逆で、死ねばすべて終わりだ。苦しみにまみれた生というのは、たしかにある。「死にたい」と思うことも、たしかにある。ただ、それは一時的な状態のことが多い。

「明日はきっといい日になる」なんて話はしない。明日はより最悪になっている可能性も高い。それでも明日は「死にたい」とは思わなくなっている、「生きていたい」と思うようになっているかもしれない。希望的に過ぎるかもしれないが、私は「死にたい」と「生きたい」のはざまを、いままでに何度も揺れている。

生と同様、死も権利なのかもしれない。ただ、死ぬ権利を行使することは、とてつもなく重く、取り返しがつかないことだ。すくなくとも、そこに他者が干渉すべきではない。ALS患者の場合、死ぬ権利を行使するためには、第三者の力を借りるほかないけど……無関係な容疑者の医師ふたりが関与した今回の事件は、明らかな殺人でしかない。

「死にたい」という声だけに耳をかたむけて、死ぬために手を貸してやる。とても安易で、卑怯だ。もっと「生きていたい」という声にも耳をかたむけてほしい。生きていくために手を貸してほしい。

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