生きることだけが正しいのか

02.メンタルヘルスのこと
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きょうは生き死にの話ばかりしている。ALS患者嘱託殺人事件について、いろいろ考えている。人はみんないつか死ぬ。必ず死ぬ。カンタンに死ぬ。にもかかわらず、多くの人は死を日ごろから意識せずに生きていられる。

死はとても身近なのに、死はとても遠く感じられる。安全な暮らし、豊かで健康な生活など、理由はいろいろあるけど、最大の理由は「医療」だろう。

医療の歴史は長く、現在では治らない病気はほぼない。「不治の病」とされたガンやHIVですら、発見が早ければキレイに治る。寿命も、半世紀前とくらべれば大幅に伸びていて、いまや100歳を超える人というのも珍しくない。

反面、現代の医療でも治せない病気というのは、たしかにある。たとえば老衰、ALSのような難病、あるいは精神疾患・精神障害など(障害については、「病気」ではなく「障害」と呼ぶのが正しいだろうけど、ここでは便宜上「病気」と呼ぶ)。

老いたり、難病や障害になって、もう死んでしまいたいと願うことは、そんなに不思議で、そんなに悪いことだろうか。老いや難病や障害から死を願うこと、私はなんら不思議なこととは思わないし、まったく悪いことだとも思わない。

ALS患者嘱託殺人に際して、中川俊男・日本医師会会長が、次のように述べていた。

中川氏は「今回の事件のように患者さんから『死なせてほしい』と要請があったとしても、生命を終わらせる行為は医療ではない」と強調した。

https://www.asahi.com/articles/ASN7Y73QNN7YUTFL003.html

このコメントを見て、私はゾッとした。

中川氏の言うとおり「命を終わらせる行為は医療ではない」と言い切ってしまって、本当にいいのか。逆をとれば、患者がどんな状態であれ、命を延ばす、長生きさせることが医療であるということなのだが、それが本当に正しいのか。

私は、双極性障害(躁うつ病)という精神障害を持っている。双極性障害は、自殺のリスクが極めて高い。私も、過去に3回、自殺を図ったことがある。一年ほど前にも、強烈な希死念慮に襲われていた。

希死念慮、つらいし、苦しい。「死んでしまいたい」医師にそう吐露すると、「気分を安定させる薬」を処方されて、希死念慮が終わるまでひたすら耐えるように言われる。この対応が正解であることは、わかる。ただ医師は、なんの立場から私に「つらさや苦しみに耐えろ」と言っているのだろうか。

医師の言うとおり、薬を飲んでひたすら耐えていたら、希死念慮はどこかへ行ってくれた。めでたしめでたし。ただ、私が双極性障害であるかぎり、次またいつ希死念慮に襲われるかわからないし、そのときはまた耐えられるかどうかわからない。

私はALS当事者ではないし、ALS当事者にもさまざまな人がいるだろうから、ひとことで「ALS患者はこう」と言うのはできないだろう。双極性障害当事者もおなじで、いろんな当事者がいて、ひとことに「双極性障害はこう」とは言えない。前向きな人もいれば、後ろ向きな人もいる。

前向きな人はいい。生きていたいだろうし、生きていてほしい。では、後ろ向きな人は? 生きることに強い困難さ・不可能さを感じて、毎日を苦しみのなかで生きている人は? そういう人々にも、医療は「生きろ」と言うのだろうか? 残酷すぎやしないか?

私は、どちらかと言えば後ろ向きな当事者である。生きることに強い困難さを感じているし、日々思い悩んでいるし、健常者であれば容易にできることにも四苦八苦している。いまは環境に恵まれて、なんとか生きていられているが、環境が変わって、大きな困難にぶつかったら、そのときはまた死を選択するかもしれない。

私は、身体は健康だから、主体的に、能動的に死を選択できる。ただ、ALS患者の場合、身体の動作にいちじるしい障害を負っていることが多い。手足が動かせなくなったり、しゃべれなくなったりして、意思疎通ができなくなる場合も多い。そういった人たちは、自分で死を選び取ることすらできなくなる。

すると、いまの医療では、患者をひたすら「生かす」しかなくなる。たとえ今回のように患者本人が「死にたい」と思っていても(実際は怪しいと思っているけど)、「医療」によって延命されてしまう。

中川氏が言うとおり「命を終わらせる行為は医療ではない」のなら、医療とは患者に「生を強いる行為」なのではないか。なんの権利があって、患者に生を強いるのか。私の命は、私のものだ。

個人的な話になるけど、わが家では、私と妻とで「延命はしない」という取り決めをしている。たがいに、延命治療が必要な状態・場面になったら、そこで医療を止めるよう取り決めをしている。一度延命を選択してしまった場合、その後の延命治療を中止できなくなる、つまり死を選択できなくなるため。

現在、延命治療をしている人たちを否定する意図はない。「わが家はこう」というだけの話である。わが家の死生観として「死ぬときは死のう」と考えているので、延命治療はしない。

ALS患者嘱託殺人事件が、「安楽死」「尊厳死」議論の口火を切ることには、私もすごく抵抗がある。中川氏も、次のように述べている。

「死を選ばなければいけない社会ではなく、生きることを支える社会をつくる」

https://www.asahi.com/articles/ASN7Y73QNN7YUTFL003.html

「どう死ぬか」より、「どう生きるか」を考えたほうが、絶対にいい。これは個人的な信念だけど、「心から死にたい人」なんてのは存在しない。個人の「死にたい」には、生きることの困難さ・不可能さ・絶望など、なにか必ず原因がある。個人が生きることの困難さを排除する、あるいはやわらげる社会を目指すほうが、絶対にいい。

それでも、死は必要なのだ。どうしても逃れえない衝動、排除しきれない困難さ、あるいは生への満足など。人間の生、人生にピリオドを打つのは死だけで、死を延々と遠ざけるだけの現代医療は絶対に間違っている。

こういう話題が出ると、私は大キライな祖母のことを思い浮かべる。祖母はいま84歳、認知症になって、特別養護老人ホームに入っている。もう、家族のこともわからない。言葉もちゃんとしゃべれない。毎日、ただただ生きているだけ。心臓が動いているから生きているだけだ。素朴な気持ちとして、はやく死んでほしいと思う。

ただ、いまでも生きている祖母を、祖母の生を、美しいとも思う。祖母は、最後まで死を選択しなかった。生きることを選択して、いまも生きている。その事実が美しい。人が生きることは、それだけで美しいことだ。それだけは忘れたくない。

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