noteを書いてて本当によかった

07.趣味のこと
この記事は約10分で読めます。

この間、noteを書いていて本当に嬉しいことがあったので、noteを書いていて本当によかったという話を書く。

3月末に、「ちゃんとしたい」というタイトルの記事を書いた。これをきっかけに、マジメに書きだしたノートの記事数が、気づいたら100件を超えていた。

個人ブログの記事数としては、まったく多くない。さらに、毎日の日記(禁煙日記)で記事数をかさ上げしているのもある。しかし、私はもともとメチャクチャ根気がない。過去にはブログ放置の実績もあるので(初代「悲しき温帯」というブログがありました)、これだけの記事を定期的に更新できているのは、自分史上の快挙だ。こういうちいさなことから、自分をほめていきたい。

最近は、毎日の日記にくわえて、週に2つ~3つの記事を更新するように努めている。とくに博覧強記というわけでもなければ、人生経験が豊富というわけでもないので、書ける話題はかぎられているけど。

私の場合、いちばん多いのが、メンタルヘルスについての記事。なかでも、自分が抱える双極性障害(躁うつ病)についての記事。いちどは飽きて放置していたノートを再開しようと思ったのも、自分の障害について、あらためて書き記したいと思ったから(だった気がする)。

自身のメンタルヘルス・双極性障害について書くのは、けっこうキツい。記事を書くにあたって、病歴をさかのぼるために過去の記憶をほじくり返すんだけど……精神障害になったことで、新卒の会社をドロップアウトした当時の、救われなさやミジメな身の上、激務や過労やパワハラ、情けない自己憐憫など、忘れたい思い出が次々とよみがえってきて、大変つらい。

「あれからもう何年も経つし、大丈夫だろう」そう思って、つらい記憶を文章に起こしてみた。しかし、書き起こして、読み返していると、後悔や未練が滝の水のように、ドバドバとふりかかってくる。

激務時代のことを思い返すと、いまでも緊張して眠れなくなる。パワハラのことを思い出せば、いまだに責められているような気がして、頭のなかに罵声が響いてくる。

なにより、新卒の会社からドロップアウトせざるをえなかったという事実が、いまでも悔しい。もし勤め続けていたら、そこにあるはずだった人生について思いを巡らすと、いまでも心底つらくなる。まだ過去を消化できてないのか、まだこのお荷物を下ろせていないのかと思うと、心底ウンザリする。

ただ、書いてよかったと思う。つらいし、しんどいけど、過去のことを書き起こしてきたことは、絶対に正解だったと思う。

noteを書き始めたのとほぼ同時に、カウンセリングを受け始めた。カウンセリング、正直むずかしい。カウンセラーさんから「最近どうですか」「困りごとはありますか」と聞かれても、パッと出てこない。3回目くらいまでは、カウンセラーさんからの問いかけにうまく答えられず、だんまりしたり、まごまごしたりしていた。

noteを書くようになって、自分の来歴、過去の成功と失敗、好ましい記憶とそうでない記憶、好きキライや得意・不得意、悩みやつまづきが、だんだんはっきり見えてきて、うまく言語化できるようになってきた。

はじめはひとりで言語化した内容を、カウンセラーさんに投げかけて、それに対してフィードバックをもらうことで、だんだんとカウンセリングが有用になってきたというか、「カウンセリングとはこういうものか」というのがわかってきた気がする。

以前の記事にも書いたけど、記憶を文章として書き記すことで、未消化だった感情をデトックスできている気もする。記憶の棚卸し、何度やればいいのかわからないが……繰り返しているうちに、すこしずつ楽になっていくんじゃないかと思う。

イヤな記憶と向き合う、イヤな感情に光を当てることで、その輪郭が見えてきた。いままでは、漠然と「つらい」「苦しい」とだけ感じていたのが、具体的に「なにがつらいのか」「どう苦しいのか」を、すこしずつだけど理解できるようになってきた。自分のみにくい部分・ミジメな部分と対峙するのは苦しい。でも、得体の知れない怪物と戦うよりも、姿の見える相手と戦うほうがラクである。

noteとカウンセリングのおかげで、自分のなかにわだかまっていた記憶の澱みたいなものが、すこしずつクリアーになっていく感触がある。正直言って、思い出したくないことだらけなんだけど、臭いものにフタをしていても、心の状況は変わらない。だったら、積極的に吐き出していきたい。

noteを再開したこと、まずは自分のためなんだけど、書き出すだけなら自分のメモ帳でいい。いちいちオープンなウェブサービスでやったのには、ちゃんと理由がある。

私が精神障害になってから感じたキツめの苦しみ。障害そのものによる苦しみはもちろんあったが、同時に、深い孤独感にも苦しめられた。

身のまわりに、双極性障害の患者はひとりもいない。双極性障害の患者がどう暮らし、どう生きていけばいいのか。いつか寛解するのか、それとも一生このままなのか。医者の言っていることは信じられないし、信じたくない。なにもわからず、なにも信じられず、だれにも相談できず、途方に暮れていた。

そんな時期に、たまたまインターネットで双極性障害患者のコミュニティと出会い、この障害のつらさをわかち合うことで、すごく救われた。

つらいもの同士で互いの苦しみを共有したところで、状況が改善するわけではない。でも「苦しんでいるのは自分ひとりだけではない」ということを知るだけでも、心はラクになる。

noteを書き始めてから、たまに記事へのメッセージをもらうことがある。ツイート、リプライ、DM、noteのメッセージ機能など、週に数回くらいだけど、感想や激励をもらう。

先日、私とおなじ双極性障害当事者の人から「記事を読んで、自分の気持ちが言語化されているかのように感じた」という感想をもらった。当事者の人からこういう感想をもらうと「声を伝えたかった相手に、伝えるべき声が伝えられた」という感じがして、本当にうれしくなる。

このメッセージを見たとき、思わずジーンときて、乗っていた電車のなかで、すこし泣いてしまった。noteを書いていて本当によかった。私は、こういうことのためにnoteを書いていたんだと、心の底から思えた。些細なことだけど、私にとっては、とても大きなできごとだった。

過去の私がそうして救われたように、他の当事者の人たちに「ひとりじゃない」「孤独じゃない」って伝えたい。私が双極性障害でヒィヒィ苦しんでいる記事が、おなじような境遇の人々の孤独感を、わずかでもまぎらわせられたら。気持ちをなぐさめる娯楽にでもなってくれたら。あるいは、その人にとって、なにかのきっかけになったら。とても幸せに思う。

しかし、私のノートは「つらい」「苦しい」「生きづらい」みたいなグチばかり書いているから、読んでもつまらないだろう。というか、読んだらかえってユウウツな気分になるかもしれない。本当に申し訳ない。でも、それこそが私の伝えたいことなんだよな。私はつらいし、苦しいんだ。毎日ユウウツで、追い詰められてる。できればはやく助けてほしい。頼むよ。

なんらかの事情、たとえば精神障害などで、生きづらさを抱えている人。もちろん私と状況や程度は違うだろうけど、私もあなたとおなじようにつらいし、苦しみながら生きている。「生きづらさを感じているのは、自分だけじゃない」「苦しみながら生きているのは、自分ひとりだけじゃない」ってことを知ってほしい。すくなくとも、私は毎日苦しんでいるし、毎日つらい。

私にはお金もない、健全な身体も健全な精神もない、なにもないから、あなたのことを支えたり、助けたり、あなたのそばに寄り添うことはできない。それでも、あなたとおなじように苦しんでいて、あなたとおなじように生きている。

あなたは世の中で完全に孤独なわけじゃない。私は、あなたと似たような境遇で生きているんだ。そういうことを、なんとか伝えていきたい。

自分の伝えたいことが、きちんと正確に書けているのか。伝えたい人へ、本当に伝わっているのか。自分の書いた言葉が、読んだ人を傷つけていないか。もしかして、ずっと壁に向かって語りかけているのではないか。いつも不安を感じている。いつも怖ろしく思っている。

私は私で「自分は孤独ではない」ということを確かめたい。私も私以外に、生きづらさで苦しんでいる人がいることを知りたい。「私はひとりぼっちじゃない」ということを知りたい。

だから、Twitterで記事に反応をもらったり、noteで「スキ」をもらえたり、DMで感想や励ましをもらえることが、とてもうれしい。自己顕示欲とか承認欲求とか、そういうものは、もちろんある。

だけど、それ以上に「私の言葉は、ちゃんと誰かに届いているんだ」「私は孤独ではない」ということを確認できる。暗闇のなかに、ともしびを見たような気持ちになる。

せっかく、オープンなプラットフォームで書いている。せっかくだから、メンタルヘルスに関する記事は、とにかくたくさんの「生きづらさ」当事者、あるいはその周辺の人に読んでもらいたい。

私は、精神障害の当事者としてのライフハックやナレッジ、「生きづらさ」を低減するための技術やハウツーみたいなものは、なにも提供できない。精神障害になってから8年、現実を直視せず、向上心や改善意欲を持たず、なにも工夫せずに生きてきてしまったので。

私が、記事を通して提供できること。精神障害の当事者として、溺れるように過ごした8年間の生活、そのなかで体験したことや感じたことを、そのまま記すことしかできない。ただ、この8年間でいろんなことがあり、いろんな目にあった。私なりに、いろんなことを思い、考えてきた。

8年経って、私を取り巻く環境はいろいろと変わったけど、私自身の状況はなにも変わっていない。あいかわらず無職の精神障害者で、つらいし、苦しい、あいかわらず生きづらい。でも、いまでもなんとか生きている。最近ようやく「生きていたい」「生きていこう」と思えるようになった。

私の文章で「人を救いたい」とか「人を助けたい」とか、そんなおこがましいことは考えていない。私の文章はヘタクソだ。思ったことをそのまま書いただけで、ロクに推敲もできていない。それに、いまの私の文章じゃ、ひとりひとりに寄り添うことはできない。

以前の記事にも書いたけど、私自身が食うや食わずやの暮らしをしているくせに「人を救いたい」「人を助けたい」などとのたまうのは、無謀で愚かで、とても傲慢なことだと思う。

障害の当事者、あるいは生きづらい人々を「救いたい」とか「助けたい」とか、そんなことは土台ムリなのでまったく考えてない。とにかく「私もつらいけど、なんとか生きてる」「私はつらいけど、なんとか生きていたい」という話を、まず「私のために」したいし、できれば他の当事者にも聞いてほしい。

ほかの当事者の人々、あるいは世のなかで生きづらさを抱えた人々。苦しくても、生きていてほしいし、死んでほしくない。生きていたいと思ってほしい。私は、そういうことが言いたい。

なんで死んでほしくないのか、なんで生きていてほしいのか、こっちの記事に一生懸命書いたので、よければ読んでほしい。なんでか。私も、理屈ではよくわからない。とにかく死んでほしくない。つらくても苦しくても、なんとか生きていてほしいと思う。

noteの記事、本当になにも思いつかなくなるまでは、なにかを書き続けたい。なにもかも吐き出し続けていたら、なんとなく視界が開けてくる気がする。まあ、いまのところ状況はなにも変わっていない、あいかわらず無職の精神障害者なんだけど……これからきっと変わっていくと信じている。

私は、これからもずっと双極性障害に苦しめられ続けていくんだろう。双極性障害は、生涯治ることはないので(「しょうがい」だけにね)。私が生きていくかぎり、つらさや苦しみがつきまとうのだろう。ただ、苦しいことには「苦しい」、つらいことには「つらい」、キツいことには「キツい」と主張し続けていく。黙って耐えたり、ガマンしたりすることは、絶対にしない。

私はこれからもデカい声で「障害がつらい!」「キツい!」「苦しい!」「生きづらい!」「助けてくれ!」と言い続けていきたい。これは、記事を読んでくれる人たち、特に生きづらさを抱えた人、そして他の当事者へ向けて、言い続けたい。

おなじ当事者たち、生きづらさと孤独を感じる人たちに「私も苦しんでるぞ!」「私も生きづらいぞ!」ということを、大声で伝えていきたい。

「生きづらいのは、自分ひとりだけじゃない」と知ったところで、状況が改善するわけではない。むしろ、気分がいっそう滅入ってくるかもしれない。そうだったら、本当に申し訳ない。ただ、記事を書いている私は、まだ生きていたいと思っている。障害がつらいし、苦しいし、キツいし、生きづらいけど、まだ生きていたい。

みんな、自分だけが苦しみながら生きているわけじゃない。私も苦しみながら、それでもまだ生きている。苦しいけど、生きていたいと思っているということを伝えたい。自己満足でいいから、迷惑にならない範囲で伝えたい。

私と、たまたま私の記事を読んでくれている人。「いつも仲良く一緒に手を取り合って」というわけじゃない。しょせんネットを介しただけの、顔も名前も知らない関係だけど……たまたま私の記事を読んでくれているのも、なにかの思し召しなんじゃないかと思いませんか。

私という人間が、毎日「つらい」「苦しい」「キツい」「しんどい」「生きづらい」と連呼しながら、それでも死なずに生きていることを、いろんな人に、特におなじような境遇の人に知ってもらいたい。無職で精神障害者、わりとどうしようもない状況だと思う。正直、明日のことを考えるのもキツい。それでも、まだ生きていたいと思っていることを伝えたい。

私もみなさんも、この世界でちゃんと生きている。ひとりで生きづらさに苦しまないで、どうせならみんなで苦しんで、苦しみをわかち合えたらいいと思う。そして、苦しみながらでも生きていく、生きていきたい、みんなにもそう思ってもらいたい。

タイトルとURLをコピーしました