けなす、ほめる

04.じんせいのこと
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私は、ネガティブである。基本的に後ろ向きで、いつも悪いことばかり考えている。

ひとくちに「ネガティブ」といっても、いろんなネガティブがあると思う。たとえば、自分の先行きを悲観してしまう。人生の展望が見えない。人の悪いとこばかり見てしまう。つねに不安におそわれている、など。

私はあらゆる意味でネガティブなんだけど、特にヤバいのが、悪口。人にせよものにせよ、とにかくけなすことがやめられない。

私は、人やものの欠点・悪いところを見つけるのが、とにかくうまい。「特技はアラ探しです!」と言っていいほど、人やものの悪いところばかり見つけてしまう。

人やものをけなすのも、うまい。けなす言葉のボキャブラリーが、大変に豊富である。だれに対しても、なにごとに対してもだけど、悪口が秒速でマシンガンのように出てくる。

Twitterには書かないように気をつけているけど、会う人からはよく「すごく口が悪いんですね!」とあきれられる。

なぜこんなにも悪口があふれてくるのか。基本的に、世間が憎い。楽しそうに生きている人を見かけると、嫉妬ではらわたが煮えくり返りそうになる。希望に満ちた若者の姿を見ると、あまりにもまぶしくて目がつぶれる。

そう、大変に生きづらい。このまま世の中への怨嗟にまみれたまま、自分や他人をけなし続けて生きていくのは、大変につらい。

というわけで、最近心がけていることがある。それは「けなす」ことをやめて「ほめる」こと。

私はなにごとに対しても「けなす」思考なので、すこし油断すると、けなす言葉がボロボロと出てくる。

他人に対して、気を抜くと悪辣な言葉がドンドン出てきて、止まらなくなってしまう。そして、人を不快にさせたり、傷つけたり、悲しませたり、縁を切られてしまったりする。

コレは自分に対してもおなじで、「キモくて金のないオッサンです」「生きる価値のないゴミクズです」「薬なしでは生きられないキ〇ガイです」みたいに、他人が聞いたら笑えない、ドン引きするレベルの自虐が出てくる。

けなすこと、私の心根なので、いまさら変えるのはむずかしい。「三つ子の魂百まで」と言うけど、三つをはるかに通り過ぎているので、治療はもう困難だろう。

心根、自分の内心は変えられない。しかし、言葉や行動は変えることができる。

いまも、なにかにつけてけなす言葉が思い浮かんでくる。以前なら、それをそのままアウトプットしていた(そしてヒンシュクを買っていた)。しかし最近は、内心を言葉にする前に、ワンクッション置くようになった。

私の思考、基本的にけなすことから入る。なにごとに対しても、まず嫉妬や不満が思い浮かんでしまう。まずアラ探しをしてしまう。

人やものに対して、はじめは本当に嫉妬や不満しか思い浮かばない。なので、とりあえず嫉妬や不満を具体化・抽出していく。私はなぜ、それが嫌いなのか。理由を考えて、列挙する。

嫉妬や不満や嫌いな理由を具体化・抽出したら、ソレをまとめて頭のなかのナベに放り込む。比喩ではなく、頭のなかにナベ、というかストッカーを用意しろ。

そして、時間をかけてコトコトと煮込む。ゴボウのアクをとるように、嫉妬や不満、嫌いな理由をこしていくと、出がらしにはものごとの「いいところ」だけが残る。

そうしたら、次はものごとの「いいところ」を「ほめる」工程に入る。私は「けなす」思考なので、ほめることはむずかしい。ただ、嫉妬や不満や嫌いな理由はさっき出し切っているので、知恵をしぼれば、必ずなにかしらほめるポイントが見つかる。

ほめることを繰り返していると、だんだんそのものごとが好きになってくる。そうすると、はじめは嫉妬や不満を感じていたことも、逆転して「いいところ」のように感じられてくる。

こうして、言葉にする(口に出す、SNSやブログに書く)前には、かならず「ほめる」工程を入れている。最近はSNSの倫理観もかなりアップデートされてきた。以前の私なら炎上待ったナシ! だっただろうけど、さいわいまだ燃えていない。

まあ実際は、そうそううまくいかない。心で好きなものはなにをせずとも好きだし、嫌いなものは嫌いなまま、ヘイトがにじんでしまうんだけど……「ほめる」工程をはさまずに「嫌い」という気持ちをストレートに言葉にしてブチまけるよりは、精神的にも世間的にもだいぶんマシだと思う。

「嫌い」という気持ちをそのまま言葉にすること、ものごとをけなすこと、別にかまわないと思うけど、それを見た人がイヤな気持ちになることはよくある。

「けなす」こと、メリットがあまりない。

自分のポジションをハッキリさせるために、なにかをけなすことはある。それはそれで腹を決めてやるべきことだろうから、いい。やむをえない「けなす」だ。

ただ、素朴に「嫌いだからけなす」「おもしろがってけなす」という行為は、あまり意味がないように思う。どころか、まわりの人を不愉快にさせて終わる、デメリットしかない。

最近も、あいかわらずけなす言葉がバンバン浮かんでくるのだけど、「ほめる」工程を意識して入れることで、ものごとをできるだけマイルドに受け入れ、表現することができている。

「ほめる」工程を入れた結果、世の中に対する嫉妬や不満はかなり減った。みんな生きてて本当にえらい、きょうもお勤めご苦労さん、社会のためにありがとうという気持ちになってきた。

自分のこともほめている。朝に起きれてえらい。ご飯を食べれてえらい。ブログを書いててえらい。あんまりムダづかいしなくてえらい。0時にはお布団に入っててえらい。などなど。

自分のちいさなことをほめる習慣をつけたら、自己肯定感がグングン高まってきた。以前は「私なんて生きてる意味ないです……」みたいな感じだったのが、最近は「毎日たのしいなァ!」となっている。

ものごとをけなす、ヘイトをばらまくと、おもしろがってオーディエンスが寄ってくる。Twitterヘイト芸人の方々はそれで数字をかせいでいるようだけど、本人にとっても、まわりにとっても、あまりいいことだとは思わない。

それよりむしろ、ほめるべきところは積極的にほめていったほうがいいと思う。そのほうが、自分も他人も気持ちがいい。他人のために、他人をほめるのではない。まず自分のために、他人をほめるべきだ。

ほめる気持ち、純粋じゃなきゃいけない。なにかをほめるために、なにかをけなす人ってけっこういるけど、それは結局「けなす」ことだ。

相対評価でほめるのではなく、絶対評価でほめることが大切だと思う。なにかとくらべていい点を探すのではなく、そのものごと本来のいい点を探す。ものごとの本質を見て、そこをほめる。「ほめる」を習慣にすると、世界の見え方も変わる気がする。

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