「私たちは『買われた』展」のこと

04.じんせいのこと
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※性暴力・性被害に関する記述が非常に多く含まれます。それらが苦手・あるいは抵抗がある方は読むのをお控えください。

9月28日(土)、八王子市クリエイトホールで開催されていた「私たちは『買われた』展」を見に行ってきた。

正直、興味はなかった。私が中高生のころには「援助交際」が流行していて、未成年売春の話題には当時から多く触れていた。だから、どうせこの展示もありていな「未成年売春はよくない」みたいな話だろうと思っていた。

ネットで『買われた』展を検索すると、「自分で売っておいてなに言ってんだ」「『買われた』じゃなくて『売った』だろ」「被害者ヅラするな」といった意見がよく見られる。私も似たようなことを考えていたし、だからあまり関心もなかった。

それでも、妻がどうしても観に行きたい、いっしょに来て観てほしいと言うから、仕方なく八王子まで行った。

クリエイトホール5階の、そう広くない展示室で『買われた』展は開催されていた。写真撮影・メモ・録音等は一切禁止。チケットを買い、注意事項の説明を受け、もぎりを済ませて会場へ入る。

結論から言うと、「買われた展」は、「売春に関する展示」ではなかった。もっと悲惨な、少女に対する、男性からの性犯罪被害・レイプ・暴力・傷害・脅迫・恫喝・蹂躙・人権侵害。そして、すべての展示物を見終わって、この展示のタイトルがなぜ「『買われた』展」なのかを理解できた。

展示されていたものは2つ。少女たちの述懐が記されたA4パネルと、少女たちの述懐を象徴するようなA2の写真パネル、そして少女たちが当時つけていた手記や日記。このなかでも、少女の述懐が特に衝撃的だった。

クローズドな展示だったので、詳細は省くけど、10名ほどの少女の述懐が展示されていた。このなかで、自ら望んで売春を行っていた少女は、ひとりもいなかった。ほぼすべてが、男性による性的暴行、あるいは搾取の被害者だった。

たとえば、ある少女の場合、いわれのない金銭負債が原因で脅迫され、売春を強要されていた。ある少女の場合、性的暴行を受けたあとに男が金を置いていったことで、「売春」という図式にされてしまった。たとえばある少女の場合、彼氏の友人とセックスすることを強要され、その対価を彼氏が受け取っていた。たとえばある少女の場合、帰り道に突然暴行された。

すべて現代の話である。「こんなことが? この日本で?」これが、いちばんはじめの、正直な感想だった。展示されていた少女たちが被害にあった年齢、下は小学校中学年から、上は高校生、いずれにせよみな「子ども」である。

「買われた」は受動態だ。受動態だから、もう一方に別の行為者が必要となる。そこで登場するのが「売らせる男」だ。「買う男」ではない。強調したいのは「売らせる男」であること。

展示に登場する男は、ほんとうにさまざまな方法で、少女の性を奪っていく。暴力、脅迫、立場や地位の利用、ときには優しい支援者の皮をかぶって。展示されていたケースのなかでもっとも多く、そしてもっとも印象的だったのが、少女たちに対する男性からの暴力だった。

力づくで少女をレイプし、事が済んだあとでわずかな金銭を(ときには数千円を)「置いて」去っていく。当然、少女は心に深い傷を負う。数千円で人の人生を破壊する。これが売買春と呼べるか?

たとえば、知らない人とすれ違いざまにナイフで腹を刺されて、その対価として千円札を投げ渡されたとしたら、あなたは納得できるだろうか。そういう恐怖が、現実の問題として被害者少女たちに降り掛かっていた。

「セックスが好きだからやってたんだろ」とも言われる。しかし、少女たちは、みな決してセックスがしたかったわけではない。なかには、まだ「セックス」について理解していなかったような少女もいた。彼女たちが求めていたのは、柔らかい寝床、温かい食事、安定した暮らし、人との関係、自分の居場所なのであって、断じて性的快楽ではない。そこに性的同意もない。ただただ生きるうえで困窮していただけだ。

たとえばある少女は、彼氏という親しい存在に売春を強要されるものの、彼氏と離れたくないがためにそれを受け入れる。他に居場所がないからだ。ある少女は、同居していた親類に毎晩性的な嫌がらせを受けていたが、それを拒否できなかった。他に居場所がないからだ。ある少女は、居場所を作るために非行に走り、結果補導される。

そういう少女に、狷介な大人が近づいていく。困ってるの? 寂しくない? 仕事あるよ。ご飯食べさせてあげる。うちに泊まっていっていいから。さまざまなエサをちらつかせて少女をおびき出し、無理矢理に少女の性を搾取して、売り物にしていく。これは取引ではない。略奪だ。「少女も助かっている」「一種の援助だ」なんていう言い方は、とんだ欺瞞に過ぎない。

「飯代でセックス」「宿代替わりにセックス」「タクシー代としてセックス」など、さまざまな場面で、少女の性がまるで通貨のように扱われるのを見た。だがそもそもなんで「対価としてセックスを求める」ことが当たり前のように通用しているのだろう?

少女に性を「売らせる」という行為が、法律で禁じられている行為が、大人として悪だという意識はないのか? それが不思議でならない。右も左もわからない少女の性を、よくもこんなに軽く扱えるものだと、大変な驚きを覚えた。

性的同意については、解釈と判断が難しいところがある。しかし、すくなくとも「男の家へついて行ったからセックスしてもOK」「いっしょにホテルへ行ったからセックスしてもOK」という理解は、確実に間違っている。さっきも言ったけど、少女が求めていたのは「寝床」であって「セックス」ではない。それに、寝床を提供する対価に、少女の性を求めるのも絶対に間違っている。

セックスさせてしまう少女の気持ちは、わかる。目の前の男性は、自分のために寝床を用意してくれたのだから、なにか見返りを差し出さないといけないという気持ち。そういう少女の心理につけ込んで性を搾取する。卑劣にほかならない。

別に、児童や少女に限った話ではない。少し前に、大林組や住友商事で、就職活動のOB訪問の場において性的暴行事件が起きている。地位や立場を濫用して、強引に性行為に及ぶ事件は多々ある。いずれも女性は「セックスしたい」と思っていたわけではなく、「セックスせざるをえない」状況に追い込まれただけだ。

展のなかで印象的だった一文に「買った人だけは、みな優しかった」というものがある。少女たち、家庭環境に問題があったケースが多い。貧困世帯である、両親の無関心あるいは過干渉、再婚した義父から性的な行為を強要されるなど。マトモに学校へ通えない少女も多かったのを覚えている。

大人になれば、自分の居場所なんていくらでも見つけられる。たとえば家庭、職場、趣味の集まり、地域のコミュニティ、インターネットなど。よし悪しこそあれ、いくらでもある。それに対して、子どもの居場所といえば、家庭と学校くらいだろう。その両方が奪われてしまったら? 少女たちはどこに身を置き、どうやって生きていったらいいのだろうか?

児童福祉を頼った少女も多かったようだが、残念ながら福祉の現場でも受け入れられなかった少女が多かったようだ。児童福祉の現場も、人手不足で大変だという話はよく聞く。しかし少女の述懐を読んだ限りでは、福祉の現場はまるで収容所のようで、およそ教育や安らかな暮らしが為される場所ではないように見えた。

福祉を責めるわけではない。福祉がすべての人を守れるわけではないのはよくわかっている。しかし『買われた』展で見たケースを見ると、保護すべきケースを見逃している、また保護された少女への恫喝的態度や、生活への強すぎる制限・干渉など、すこし首をかしげることも多かった。もちろんあたたかい児童福祉の現場もあるのだろう。そういった場所が、今よりももっと増えて、児童福祉が拡充していくとよい。

単に「売春」と言うと、セックスの売り買いという印象しか受けない。しかし、展示されていた児童買春はまったく話が違う。「売買春」とうたいつつ、そこにあるのは取引ではない。「売った」「買った」の図式ではない、単なる暴力・蹂躙・搾取・支配だ。そこへ成人男性側から金銭を挟むことで、ムリヤリ「売買春」の構図にすり替えているだけだ。

成人男性が児童をどうにかしようと思えば、いくらでも、どうにでもできる。体格や力では圧倒的に勝っているし、児童は判断力もまだ発達段階だから、簡単な脅迫で容易に口を封じることもできる。児童買春は、弱い者を狙った卑劣な犯罪である。少女を「取引相手」にするな。都合のいいときだけ大人扱いするな。

『買われた』展について、妻と話すなかで、児童買春は単なる性欲によってなされているものなのかを、疑わしく思うようになった。性欲よりもっと卑劣な、自分より弱いものを支配したい、小さなものを滅茶苦茶に壊したい、そういう低劣な欲求によってなされているんじゃないか。

「売らせる男」が求めていたもの、少女たちが「買われた」ものは、少女の人生や人格そのものであるような気がしている。そう考えると、ますますやるせない。

「売らせる男」、加害男性に対して「理解できない」と感じる。と同時に、おなじ男である自分が怖くなった。私も成人男性だから、いつ少女たちに性を「売らせる」立場になるかわからない。私自身は、そういうことをするつもりはない、したくない。でも、男性である以上、幼稚な性欲や獣性を否定できないし、またそれらから解放されることはないのだろう。

いまは「絶対に『売らせない』」と思っていても、たとえば5年後や10年後、もしかしたら今日このあとにでも、女性に対して暴力を振りかざす可能性はある。『買われた』展は、私にとって新しい理解になったとともに、強烈な戒めにもなった。

児童買春について、「私は大丈夫」「私とは関係ない」ずっとそう思っていた。しかし、多くの男性が、少女をまるでモノのように扱うさまを見て、いつ自分と近しい人がこういう目にあうか、そしていつ私が加害者になるか、まったくわからないことに気がついた。私も、当事者だった。

『買われた』展終了後のアンケートで、「あなたが被害者少女にしてあげられることはなにか?」「あなたが児童買春をなくすためにできることはなにか?」みたいな問いかけがあり、私は考え込んでしまった。

私は成人男性、いわば「売らせる側」だ。そんな私が、被害者少女に対してできること……なにもない。じっと考え込んだ挙げ句、「売らせないこと・買わないこと」とだけ書いて、会場をあとにした。

本当は、なにかできることがあったらいい。なにかしたいと思う。けど、私の立場は「潜在的加害者」なんだ。たとえば私が、少女を積極的に保護、行き場のない少女を家に泊めるなどしたとしたら、客観的には「加害」だろう。極論、少女たちとはまったく交流を持たないのがいちばんいい。せめてできることといえば、遠くから見守ること、匿名で寄付をするくらいだろうか。

展示されていたのは被害少女の声ばかりだが、この問題の当事者は男性だ。男性が、自らの理不尽な性欲・獣性・支配欲を少女へ向けることさえなければ、この展示は必要なかった。『買われた』展というが、要するに犯罪被害者展である。加害者男性さえいなければ、被害者少女が生まれることもなかった。観客は女性が多かったが、私はむしろ男性にこそ観てほしいし、現実を知ってほしい。次は11月8日から10日まで、埼玉県さいたま市で開催される。

私は、加害者男性がなぜ「売らせて」しまったのかが知りたい。児童買春は、言うまでもなく重大な犯罪だけど、罪を裁きたいとか、行為を糾弾したいとかではなく、なぜそういうことをするのか、これからの私のために知りたい。児童買春の原因は、男性にある。原因を追求しない限り、問題は解決しない。「私たちは『売らせた』展」をやってほしい。

展示を観に行って、本当によかった。妻に「なぜそんなに観に行きたかったのか?」と尋ねると、「インターネットでは、見てもない人の感想ばかりが飛び交っていて、本当のことが知りたかった」「あなたと私とのあいだで、性差に対する考えの温度差を強く感じていた」という答えが帰ってきた。

妻の言うとおり、実際に見なければわからないことがあるし、見ないまま批難するのは馬鹿げた行為だ。いままで、男性としての自分が当たり前だと思っていたことも、女性としての妻にとっては当たり前ではないということに気づかされた。ジェンダーについての考え方が180度変わった気がする。それくらいショックな展示だった。

願わくば、『買われた』展の続き、『買われた』少女たちの、その先が見たい。児童買春の被害にあった少女たちが、どうか健やかに成長し、幸せに暮らしている姿が見たい。そうすることで、いままさに被害にあっている少女たちへのロールモデルが提示できる。これから被害にあうかもしれない少女たちにとっての救いとなれるかもしれない。

展示のなかの少女たちは、凄惨な被害にあいながら、なお前向きに生きようとしている。薬物を止められた少女。少年院で更生した少女。定時制の高校へ通いながら、看護師を目指す少女。形はさまざまだが、未来へ向かって歩き続けている。

反面、これは氷山の一角で、いまだ性被害から立ち直れていない少女、あるいはなんらかの性被害にあっている成人女性も多くいるのだろう。女性は、つねに暴力や抑圧に晒されている。私は男性として、その現実を受け止めなければならないと強く感じた。

すべての少女が被害から立ち直り、その人生が幸多きものになることを祈る。すべての子供たち、すべての女性が自分の居場所を持って、男性と女性がともに協力し、安心して暮らせる社会になることを祈る。

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