なんで自殺したくなるのかわかってきた

02.メンタルヘルスのこと
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最近のことなんだけど、またほんのりと希死念慮(「死にたい」という観念)を感じる。

最近は、とても幸せだ。あいかわらず就職への道は厳しそうだけど、生活は安定している。長いあいだ課題だった睡眠リズムについても、薬の処方を変えたらかなり改善された。たぶん、社会復帰は近い。

なのに、「死にたい」と思ってしまう。こんなに幸せなのに、こんなに前向きになれているのに、死にたいと思ってしまう。

最近は、「ずっと眠っていたい」というかたちで希死念慮を感じることが多い。最近の眠りは深く、穏やかで、夢を見ることも少ない。ずっと眠っていたいと思う。こういうのも、希死念慮の一種らしい。

「消えてしまいたい」と思うこともある。生活は安定していて、妻との関係もうまくいっている。生活のなかでの最大のリスク要因が、私自身。私がいなければ、なにもかももっとうまくいくのでは。そう考えてしまう。

過去に3回、自殺を図ったことがある。

1回目は、仕事に行き詰ったとき。そのときは、双極性障害(躁うつ病)になって、閑職に追いやられていた。与えられた仕事は、うまくやっていた。収入も悪くなかった。だけど、そこから先の展望が、なにもなかった。

「ここが私の人生のピークか」人生を映画にたとえるなら、もうエンドロールが流れ出していて、私はスクリーンの横でそれを眺めている。そんな気持ちだった。

だれだって、映画を見終わったら、映画館から退場するだろう。映画館から退場するように、人生から退場しようとした。

2回目は、職場でパワハラにあっていたとき。このときは、仕事にやりがいを感じていた。しかし、パワハラにあっていた。また映画にたとえるなら、フィルムがブツッと切れたような感覚。

私の人生という映画が、不本意ながら終わらせられてしまった。これ以上生きていても仕方がない。それで、自殺を図った。

3回目は、会社をやめたとき。新卒のときに描いた「人生設計」、28歳で結婚して、30歳で子どもが生まれ、35歳でマイホームを持つというストーリーが、ぜんぶご破算になってしまった。

またまた映画にたとえるなら、脚本がメチャクチャになってしまった。私の人生という物語がメチャクチャになってしまったので、もう生きる意味はない。それで自殺しようとした。

1年半ほど前、転職した会社をやめた直後にも、けっこうキツめの希死念慮におそわれていた。ドン底から必死の思いで上京・転職をして、会社でも評価されて、妻と結婚して、これからというときに双極性障害が再発して、会社をやめた。

このときも、「人生という物語の終わり」を強く感じた。またまたまた映画にたとえるなら、いままでの生活はぜんぶトゥルーマン・ショーで、エンドロールが終わり、観客がいなくなった劇場にひとりたたずんでいる。そんな感じ。

最近は最近で、順調だけど単調な生活を送っているせいか、また人生のエピローグをボーッとながめ続けているような気がしている。

いま、大金を手にしたとか、地位や名誉をえたというわけではないけど、幸福の絶頂にある。いままでの人生のなかで、こんなに穏やかで、こんなに幸せな時期はなかった。

これから先の人生、このまま抑揚なく終わってくれればいいんだけど、きっとこれから先にもっと悪いことがある。またまたまたまた映画にたとえるなら、ハッピーなエピローグの余韻にひたっていられるうちに、映画館から退場したい。そんな気持ちになっている。

私は、とにかく私の人生を単線的な「物語」としてとらえてしまうフシがある。というか、だれだってワリとそうなんじゃないかと思う。そして私は、つねに「私の人生」という物語に幕を閉じたがっている。

人生という物語、いいことと悪いことの波があるけど、悪いことがあったらソコで幕を閉じたくなるし、いいことがあってもソコで幕を閉じたくなる。とにかくつねに幕を閉じるタイミングをみはからっている。

ただ、実際の人生って、物語でもなんでもないんだよな。そりゃ、終わってみれば(死ねば)ひとりいっこの物語にはなるんだろうけど、その渦中にいるあいだは、さまざまな事象がランダムに発生しているだけにすぎない。

実際の人生、いいことも悪いこともひっくるめて、いろんなことがある。成功もすれば、挫折もする。勝利もすれば、敗北もする。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。ある程度の志向性はあるかもしれないけど、結局はなにもかもがランダムだ。

いきなり病気になることもある。入試に落ちることもある。大金を手にすることもある。人との出会いもある。交通事故にあうことある。人生、すべてのものごとに、規則性はない。

規則性のない人生なのに、規則的で単線的な物語でとらえようとするから、いけない。単線的な物語としてとらえてしまうから、本筋からそれたときにはガッカリしたり、取り返しのつかない気持ちになったり、死にたくなったりするんだと思う。

私の場合はだけど、新卒の会社で「人生設計」という物語を描いたのがよくなかった。28歳で結婚して、30歳で子どもが生まれて、35歳でマイホーム。こういう物語を先に描いてしまった、ソレに入れあげてしまったのがよくなかった。

「人生設計」は、大事といえば大事なんだろうけど、ソレを既定の物語にしてしまうと危ない。なぜなら、「人生設計」から脱線したときに、失望や絶望を感じてしまうから。

そのうえ、人生ではランダムな事象がランダムに発生するから、カチッと立てた「人生設計」がうまくいく保証なんて、なにもない。極論「人生設計」なんて、ないほうがいい。

身もフタもない言い方にはなるけど、人生に期待しすぎるのはやめようと思う。なにかに挑戦すること、状況をよくする努力、コレはやめたくはない。だけど、成功に望みを託すようなことはやめよう。失敗したらガッカリするので。

「普通の人生」にあこがれていた。ここで言う「普通」というのは、就職して、結婚して、子どもが生まれて、家を建てて、犬を飼ってという、典型的な人生の物語。普通にあこがれつつ、普通から逸脱してしまった自分の人生に、失望していた。

ただ最近は、逸脱してしまった自分を受け入れられるようになってきた。べつに「普通」にとらわれる必要はない。というか、「普通」の人たちに目をこらせば、十人十色で苦労を抱えていたりして、私があこがれていた「普通」なんてものはどこにもないことに気づいた。

「普通の人生」なんてものはどこにもなくて、「私の人生」があるだけなんだ。私が、「私の人生」という物語を、どうつむいでいきたいか。最終的には私次第だ。それに、私の人生のよし悪しは、私が死んだあとでないとわからない。

現在進行形の「私の人生」は、物語でもなんでもない。私の人生が物語になるときは、私が死んだときだけだ。死ぬまでは、なにが起こるかわからない。

もしかしたら、もっとよくなるかもしれない。もしかしたら、もっと悪くなるかもしれない。いまも、日々状況は悪くなっている。日を追うごとに、追い詰められていっている。正直、幸せなうちに幕引きしたいけど……エンディングはいまじゃない。

「幸せなうちに死にたい」「人生のピークで死にたい」「これ以上悪いことがある前に死にたい」という気持ちは、すごくある。

ただ、なにが幸せだったか、いつが人生のピークだったか、なにがよくて、なにが悪かったかは、死んでからでないとわからない。

だから、死ぬまで生きてみようと思う。たぶん、これから先も定期的に死にたくなる。これから先も「死にたい、死にたい」と言っているだろうけど……「私の人生」という物語のよし悪しは、死ぬまでわからないということは忘れないでいたい。

そう考えると、自殺はイヤだ。自殺したくないし、だれにも自殺してほしくない。人生のことをなにもわからないうちに死ぬのはイヤだ。生きるのはつらい、苦しい、しんどいけど、「なにかいいことがあるんじゃないか」というさもしい希望が捨てきれない。

最近は、ささいなことに幸せを感じる。今朝もちゃんと起きられたとか。トーストがうまく焼けたとか。タバコがおいしいとか。妻の機嫌がいいとか。きょうも天気がいいとか。なんてことないことばかりだけど、こういうものの積み重ねが人生なのかもしれない。

いまの生活、人生のエピローグみたいな生活だけど、私にはまだまだ時間が残されている。どういったかたちでもいい、どれだけささいなことでもいい、日々の生活を着実につむいでいきたい。そして最期に「これが私の人生だ」と言って、死にたい。

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