自殺と報道

02.メンタルヘルスのこと
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ロビン・ウィリアムズという俳優が好きだ。「いまを生きる」とか「グッドモーニング・ベトナム」、「グッド・ウィル・ハンティング」とか「パッチ・アダムス」とかに出演している。優しい笑顔と、弱さに寄り添うような繊細な演技が大好きだった。

ロビン・ウィリアムズは、2014年に自殺を遂げた。メディアによると、うつ状態とアルコール依存性を併発していたと言われている。本当に大好きな俳優だったから、訃報にふれたときは本当にショックだった。

私は、ロビン・ウィリアムズが出演する映画から、本当にたくさんの勇気をもらった。とくに「いまを生きる」が大好きだった。いまでも2年に1回くらいは見返して、「生きるんだ」という気持ちを再確認している。

だからこそ、ロビン・ウィリアムズが自殺したと聞いたときは、ドン底に突き落とされたような気持ちになった。

ロビン・ウィリアムズが出演する映画に通底するテーマは「生きる」ということだと思っていた。私は、ロビン・ウィリアムズが出演する映画から、生きる意思をもらっていた。だからこそ、彼が自ら死を選択したことを知って、自分の人生観が揺らぐのを感じた。

きのう、日本で著名な俳優が自殺したと報道された。ドラマや映画、CMなどでよく見かける、私も好きな俳優だった。私にとっては、ロビン・ウィリアムズほどの思い入れはなかったけど、出演作は何本も見ていたから、少なからずショックを受けた。

私は、テレビは見ない。新聞も読まない。ネットのニュースにもふれない。できるだけ情報(インプット)をコントロールするようにしている。それでも、俳優の死のこと、自殺したこと、自宅で縊死したことなどが目に入ってしまった。

自殺は、つらいし、悲しい。自殺について、いいとか悪いとかは言えないけど、個人的にはとてもイヤだ。「人が自殺した」という話を聞くと、たとえそれが赤の他人だったとしても、本当に苦しい気持ちになる。

であるのに、著名人の自殺というのは、とにかく大袈裟に取りざたされる。「まだ若いのに」「残される家族がいるのに」みたいに身勝手なコメント、「なぜ自殺したのか」「どう自殺したのか」みたいにゴシップ的な憶測が飛び交う。

著名人の自殺は、公共の電波、あるいは週刊誌などによって、広く報道されてしまう。不確かな情報が、悲劇的に拡散されてしまう。個人の自殺という事象に、さまざまな文脈が勝手に付与されて拡散されてしまう。

なぜ自殺したのか、そんなことはわかりようもない。自殺した本人はすでに亡くなっているし、理由を確かめるすべはないから、すべての「なぜ」は憶測にすぎない。

なのに、報道によって、自殺に文脈が付与されてしまう。たとえば金銭トラブルや家庭の不和、仕事の問題や健康上の理由など、後付けでさまざまな「なぜ」が付与されていく。

こうして「自殺の文脈」ができあがってしまうと、私たちは自分のことを思わざるをえない。自殺の文脈に、どうしても自分を当てはめてしまう。

たとえば、メディアの報道にふれて「あの人も、家庭の不和で悩んでいたんだ」「あの人も、病気に悩んでいたんだ」「だから、自殺したんだ」そういう文脈ができてしまう、それに自分を重ねてしまうと、自分の死がグッと身近なものになってくる。

とくに、普段から希死念慮に悩まされている人にとって、著名人の自殺にふれること、自殺の文脈に自分を重ねることは、本人の自殺に向かって背中を押すことにつながりかねない。

希死念慮に悩まされている人にとっては、「あんなに著名な人でも自殺してしまうのか」という感情、「それなら、私なんて」という思いが出てくるかもしれない。実際に私はロビン・ウィリアムズの訃報にふれたとき、大きな希死念慮におそわれた。

しかし、ひとつ忘れてはならないこと、メディアで語られる「なぜ自殺したのか」という論説は、すべて憶測にすぎないこと。「自殺の文脈」は、すべて外野が勝手に想像しているものだということ。

なぜ自殺したのかは、自殺した当人にしかわからないということ。遺書でも残っていれば話は別だけど、本人の意思がわからない以上は「なぜ」の部分は理解しようがないということ。

ロビン・ウィリアムズにせよ、昨日亡くなった俳優にせよ、存在感のある著名な人物だから、自殺したショックは大きい。ただ、なぜ自殺したのかは、本人にしかわからないし、本人はもう亡くなっているから確かめようもない。

自殺の「なぜ」を憶測すること、自殺の「なぜ」の憶測に惑わされるのはやめたい。たとえばアルコール依存性で、精神の疾患で、社会的な事情で自殺した「と思われる」としても、それは正確な情報ではない。単なる憶測だ。

自殺に文脈など存在しない。なぜ自殺したのかはわからない。それをあれこれ勘ぐっても、自分の精神的なダメージが大きくなるだけだし、後付けされた「自殺の文脈」に引きずられるだけだ。

いまはただ、死を悼むしかない。どういう事情があったのかは知らない、知りようもない。自殺したことはつらいし、悲しい。はっきり言うけど、それ以上の感情を第三者が抱くべきではない。

「なぜ自殺したのか」を知りたい、想像したいのは人の性だから、そこは決して否定はしない。ただ、個人的な想像も、マスコミの報道も、すべては憶測に過ぎないということは強調したい。

繰り返しになるけど、「なぜ自殺したのか」という真実の理由は、自殺した当人以外知りえない。たとえどれだけ親しい友人であっても、身近な家族であっても、真実の理由を知ることは絶対にできない。ましてや第三者やマスコミには知る由もない。

最後に、いいたいことはふたつ。

ひとつは、人の死をゴシップ的に消費するのはやめようということ。著名人の死、特に自殺はセンセーショナルなニュースだけど、決して面白半分で語っていいものではない。それを深堀りしてメシの種にしている人たちもいるけど、心底軽蔑している。

死は、自殺はつらくて、悲しいものだ。決して娯楽の種ではないし、ちょっとした話のネタにすべきでもないと思う。私たちにできることは、ただ死を悼むこと、それだけじゃないだろうか。

ふたつ、自殺に文脈はないということ、自殺の理由は知りえないということ。マスコミが家庭の問題や健康の問題を取りざたして、自殺に理由があるように語った、自殺に文脈を付与しようとしたとして、それはぜんぶ憶測にすぎない。

自殺した理由は、当人にしかわからない。自殺した当人はもう亡くなっているから、理由を確かめることもできない。自殺に文脈を付与するのは不可能なことだし、とても浅はかで、バカバカしくて、卑しいことだ。

自殺に文脈はないから、どうかそれに引きずられないでほしい。たとえ著名人が健康や金銭や家庭の問題で自殺したと語られたとしても、それらは全部憶測で、まやかしだ。著名人が自殺したとしても、それに自分自身を重ねるのはやめてほしい。

著名人の自殺がセンセーショナルに報道されること、もう日本のメディアの体質というかお家芸というか、どうしようもない。他人の不幸でメシを食っている連中なので。

ただ、情報の受け手側として、モラルを持って、正しくありたいと思う。メディアが作り出した「自殺の文脈」という虚構に踊らされず、引きずられず、ただ一個の人間としてひたすらに死を悼みたいと思った。

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