努力は報われない

04.じんせいのこと
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努力してそれなりの大学に入り、努力してそれなりの会社に入った。新卒で入った会社で書いた「人生設計ノート」には、「28歳で結婚、30歳で第一子が、32歳で第二子が誕生、35歳でマイホーム」と書いてあった。

私の父も、会社の先輩たちも、こんな感じで生きているらしかった。私もきっとそうなる、そういう人生を手に入れられるんだろうと、根拠もなく信じていた。

30歳になった。なにも手に入っていなかった。どころか、双極性障害(躁うつ病)という精神障害になったり、そのために会社をやめたりして、いろんなものを失っていた。

大学の同期・新卒の会社の同期は、みんな結婚したり、子どもを持ったり、家を建てたりしていた。そんななか、私だけがなにも手に入れていない・なにも手に入れられないでいた。

家庭、子ども、マイホーム。私が手に入れられなかったものを、なにもかも手に入れている同期のことを思うと、嫉妬に狂いそうになった。「アイツはあんなにたくさんのものを手に入れているのに、どうして私はなにも手に入れられていないんだ」そんな思いに駆られて、みじめな気持ちになったりした。

私はいままで「こんなにもがんばって努力してきたのに、なぜ私はなにも手に入れられないんだ」という不公平感に苛まれてきた。

同期と自分、努力の量や質に差はないはずだ。おなじ会社でおなじように仕事をして、おなじように資格を取っていた。なのに、どうして彼らは報われて、私だけが報われないのか。そんなことで悩んでいた。

不公平だし、不平等だと思った。彼らが当然のように手に入れているものを、私は手に入れることができない。私も彼らとおなじ努力をしているのに、私は彼らとおなじものを手に入れることができない。

35歳になって、やっとだいたいのことに諦めがついた。というか、気づいた。「当たり前に手に入るものなどない」ということに。

私の努力が不足していたとか、私の努力が間違っていたとか、そういう話ではない。私はいままで十分がんばってきたし、それはなにも間違っていない。

ただ、努力した結果としてなにも手に入れられなかったし、その結果に幻滅していた。そこで、私はいままで「努力さえしていれば、なにもかも当たり前に手に入る」と信じ込んでいたことに気がついた。

なにかを手に入れるのに、努力をするのは当然のことだ。私だって、勉強にせよ仕事にせよ、さんざん努力してきたし、努力が報われた場面はたくさんある。

ただ、努力が必ず報われるかといえば、そんなことはない。100の努力をしたからといって、100のリターンが必ず手に入るわけではない。100の努力をしたとして、私のように損失を出す人もたくさんいる。逆に、30の努力で100のリターンを手に入れるような人もいる。

その差はなんなのか。要領のよし悪し、能力の高い低い、努力の質など、要因はいろいろとありそうだ。しかし、身もふたもない言い方にはなるけど、結局は運、なにもかも「たまたま」なんだと思う。

私の場合、たまたま運が悪くて精神障害になり、たまたま運が悪くて失職してしまった。どっちも「たまたま」だから、努力の余地はないし、がんばってどうにかなったものではない。

努力を否定するつもりはない。さらさらない。努力はとても大事だ。努力なしでは始まらない。努力は、すくなくとも0を1にしてくれる。「ああしたい」「こうありたい」と考えて、目標に向けて一歩を踏み出すことから、すべては始まる。

過去の受験や就活、仕事のことを思い返してみても、自分で「進学したい」「就職したい」「ノルマをクリアしたい」と考えて、それを成すために努力することで達成できたこともある。努力は大事。「はじめの一歩」の鴨川会長も、「努力は必ずしも報われるとは限らん、しかし成功するものはすべからく努力しておる」と言っている。

ただ、努力がすべてではない。繰り返しになるけど、結果は「たまたま」出ることが多い。

いくら努力をしても、すこししか得られないこともある。だけど、それはたまたまだ。「努力が足りなかったんじゃ……」と悩む必要はない、単に運が悪かっただけなので。逆に、努力に対して多く得られることもあるが、それもたまたまである。運がよかっただけ、思い上がってはいけない。

いくら努力しても、手に入らないものはたくさんある。人ひとりで生きてて、当たり前に手に入るものなんて、自分の命くらいしかない。それ以外、たとえば家庭とか、職とか、お金とか、パートナーとか、趣味とかなんて、たまたま手に入るものだ。たとえば、親は子を、子は親を選べない。職業選択の自由にも限界がある。安月給のサラリーマンにマセラティは買えない。

なにごとも、努力すれば必ず手に入るとは限らない。いままでは「努力! 友情! 勝利!」みたいな週刊少年ジャンプ脳だったけど、努力の限界というか、努力の蓋然性みたいなものに気づいた。やっと気づけた。

「努力すればなんでも手に入る」という思い込みが、不平や不満を生む。かつての私のように「私はこんなに努力しているのに」「私はこんなにがんばっているのに」みたいに、ひとりよがりな思考におちいる。でも、そもそも自分ひとりで努力して手に入るものなんて、たかが知れている。

繰り返しになるけど、「努力なんてするな」「努力はムダだ」とは言わない。努力は可能性を広げてくれる。努力をしろ。求めること、手に入れる努力をすることは重要だ。求めない限りは手には入らないし、求めているだけでも手には入らない。

ただ、求めること、そのための努力にこだわりすぎてはいけない。手に入らなかったときの失望が深くなる。努力を過信したり、努力に期待をし過ぎないほうがいい。

なにごとも「手に入ったらラッキー」くらいに考えたい。求めても、手に入れようと努力しても、最後は運だ。手に入ったら、幸運を喜ぼう。神に感謝しよう。手に入らないのが当たり前、失望するのはやめにしたい。

「人事を尽くして天命を待つ」と言うけど、人事(努力)は尽くすべきだろう。努力しよう。そのうえで、最後は天命、要するに運に任せることになる。うまくいっても運、うまくいかなくても運。運に気を悩ませて、あくせくするのはやめたい。

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