自殺してほしくない

02.メンタルヘルスのこと
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もう何年になるかわからないが、現在に至るまで、ずっと希死念慮が抑えられない。実際に死のうとしたことも何度かあるし、うち一回は病院へ運ばれて、周りの人に大きな迷惑を掛けた。

自分で何度か試してみたが、薬をODして死ぬのは、なかなかむずかしい気がする。手近なところでいえば、首吊りが一番ラクである。そんなことはどうでもいいが。

昨年、友人が自殺した。仮にAとする。私より結構年下で、まだとても若かったが、自殺した。しばらく疎遠になっていて、「便りがないのはいい便り」なんて思っていたら、共通の友人Bから、「Aが自殺した」という知らせが入った。

案外驚きはしなかったし、訃報に涙するようなことはなかった。「人だから、死ぬよな」くらいのことしか、考えていなかった気がする。Aのことは、学生時代から知っている。努力家で自信家、才能は豊かだが、才気走ったところがあったから、社会に出たら苦労するだろうなと思って見ていた。実際、学校を卒業してからのAは、自分の境遇に不満そうというか、生きづらそうな感じがしていた。でも、死ぬとは思ってなかった。だから、多少はびっくりしたが。

自殺の理由は、わからない。遺書があったらしく、BはAの両親とも仲が良かったから、その写しを貰ったらしい。「よかったら読むか」と言われたけど、もう死んじまったんだし、読んでも仕方ないだろうと思って、読まなかった。今思えば、読んでおけばよかったと思う。そのあと、Aのことについて、Bといろいろ話したが、なんか呆然としてしまって、なにを話したかはよく覚えていない。自殺を知らせてくれたBは、私よりAと親しかったから、Bに向かって「あんまり落ち込むなよ」みたいな話をした気がする。このときは、まだ余裕があった。

訃報の一週間くらいあとで、またBと会い、カラオケに行った。ふと、自殺したAと、以前フジファブリック「若者のすべて」を一緒に歌ったことを思い出し、軽く悼むくらいの気持ちで、マイクを取った。

そうしたら、一気にAのことが思い出されてきた。声が出なくなって、涙が止まらなくなってしまった。そういえば、一緒に花火をしたっけ。あれが、最後の花火なんだ。Aの日々は、未来はもう存在しないのだ。そう思うと、つらくて、たまらなくなった。その後の歌も、歌詞のちょっとした部分につけて、Aの顔が思い出されてしまい、まともに歌えなかった。メソメソしながら家に帰ろうとしたが、一人になるのがなんとなくイヤで、近所の喫茶店で泣きながら、妻の帰りを待っていた。

一概に「自殺は悪だ」とは、言えない。今でもときどき死にたくなるし、生きていてもしょうがないんじゃないか、死んだほうがマシだ、そう思うことは、頻繁にある。具体的になにとは言わないが、死んだほうが幸せ、死んだほうがラクな境遇というのも、たしかにあると思う。

外野から「死ぬな」と言うのは簡単だけど、とても空疎で、意味がない。悩みを解決してやるわけでもない、先の人生に責任を持ってやるわけでもない、そんな立場から「自殺はよくない」と一般論を振りかざしても、なんの説得力もない。

むずかしい。身近な人が自殺したら、とてもつらいと思う。実際、とても辛かった。疎遠になってたAの死ですら、すごくつらかった。じゃあ、もし私がAとの親密さを保っていて、Aの死を予感できていたら? Aの死を止められたか? 多分、ムリだったと思う。自分の意志で、死を決めたのだ。私に止める権利なんて、ないだろう。AにはAの人生があって、私が知りえない部分がたくさんあって、そしてそのなかに耐えがたいことがあって、だから、死を選んだのだと思う。

「悲しむ人がいるから」自殺はやめろ、というのもおかしい。たとえば私が自殺したら、悲しむ人がいる、いるかもしれない、いるとしてだ。その人が悲しむことと、私が苦しんで死を目指すこととは、おおむね別の問題だろう。

「親しい人を悲しませたくないから」自殺を思い止まる人も、世の中にはいるのかもしれない。でもそれは、決定的な抑止力にはならない。絶対にならない。だって、自分が死んでしまえば、残された家族や友人が悲しもうが、泣こうが、後を追おうが、関係ないじゃん。それに、自分は「今」死ぬほど苦しんでるのに、他人の「将来の」悲しみに配慮しろって、残酷すぎるだろ。「残された人が悲しむから、自殺は止めろ」論は、もっともらしいが、自殺を思い止まらせるには弱すぎる。

でも、やっぱり自殺はイヤだ。善い悪いではなくイヤだ。私はAに、死んでほしくなかった。

よく言われる話だけど、死んだらすべておしまいだ。死んだ時点で生活は終わる。明日は来ない。食事もできないし、酒も飲めないし、煙草も吸えないし、人にも会えない。仕事はどうでもいい。自殺で唯一評価すべき点は、二度と仕事へ行かなくても済むこと。

極めてわがままな言い方だけど、私は、私たちは、もう二度とAに会えない、その一点が、どうしようもなく悲しい。Aが生きていてさえくれれば、いつかは、あるいは、いつでも会うことができた。そういう可能性が、キレイに消え失せてしまった。それが悲しい。

「生きていれば、いつか楽しいことがある」なんてことは、とても言えない。経験上、今までがロクでもない人生だったなら、これからもロクでもない人生になる可能性が高い。イヤなことばかりの人生だったなら、これからもっとイヤなことが起こる可能性が高い。想像するとゲンナリしてくる。

だいたい私はもう精神障害者だし、人生というマラソンにおいて、手枷足枷をつけられてるようなもんだ。しかも、自殺未遂やらなんやらで、途中何度も転倒負傷してるし、今も体調不良による失職で、救護室送りになっている。これから巻き返す方法を考えなきゃならないが、もう宝くじ1等に当選するか、実家の庭から油田が見つかるくらいしか思いつかない。というか、もうこれ以上、走りたくない。

おなじように、病気や怪我を負っている人、あとはいわれもない借金を負わされた人、仕事や家庭が上手くいっていない人、生活になにかしらままならない部分を抱えた人、つらいと思うし、落ち込むこともあるでしょう。

それでも生きていてほしいと思うし、生きていたいと思う。なぜかを説明するのはむずかしいが、人が生きていくというのは、いかなる形であっても素晴らしいことだし、美しいものだと思う。

カウンセリングを受けるために、自分の人生、最近は特に上京してからのことを、文章にまとめている。上京する時点で、もう双極性障害ではあった。上京後も、もれなく障害に振り回されている感じはするんだけど、新卒で入った会社をバックレて、自殺しようとしたときのように、破滅的なシナリオを選ぶことはなくなった気がする。

まあ、当時とは環境も違うし、今もばっちりアル中の疑いが出たりしてるんだけど、障害と多少上手く付き合えるようになった、生活が前向きに改善されたものだと信じたい。

あと、自分の生活に目を凝らして見てみると、案外いろんなことが起きている。ケンカした、仲直りした。買い物へ行った、帰ってきた。喫茶店に入った、出た。風呂に入った、出た。とか、まあその程度のことで、日常の範囲で、行ったり来たりしてるだけなんだけど。

進学したとか、就職したとか、なんか賞を貰ったとか、起業したとか、そういう人生を動かすビッグイベントじゃない。些細なことなんだけど、些細なことの積み重ねが、毎日の生活で、自分の中にストックされていってるんだなと思うと、なんか愛おしい。

「私は頑張って生きてます! みんなも頑張って生きましょう」なんて言うつもりは、毛頭無い。というか、これっぽっちも頑張っていないので、言う資格すら無いのだが、少なくとも10年越しくらいで、人生はマシになってくると思いたい。私の場合はだけど。あと、いろいろあったが、まだなんとか生きてる。これは強調したい。

さっき、人生をマラソンにたとえたけど、一部不正確なところがある。人生は、マラソンと違って単線的な競争じゃないし、ゴールまでの道は一本じゃないし、ゴールも人によって異なるだろうし、そもそもゴールがあるのかどうかも怪しい。それぞれの道を、それぞれがどう進んでいくか、その過程が、人生の価値なんじゃないかと思う。

人生は、マラソンと違って競技じゃないんだから、疲れたら座って休憩したり、コースアウトして遊んだり、そのへんで寝たり、ふざけて逆走してみたりすればいいんだよ。走り切るのがむずかしくなったからって、リタイヤして終わりにする必要なんてない。たしかに、審判めいた人から「ちゃんとやれ!」って言われることもあるが、公式競技じゃないんだから、無視すればいいんだよ。

汗水流している姿も美しいし、サボって遊んでいる姿も美しいし、疲れてうずくまってる姿も美しい、そういうもんなんじゃないのか。

死んだAのことは残念だけど、仕方ないと思う。すごくストイックで真面目だった。思い返せば、昔の自分もそうだった。コースアウトは許せなかったし、人より先へ、先へ進むことだけに腐心していたし、レースから降りた先輩上司のことは、心のどこかでバカにしていた。毎日が勝負で、勝ちか負け、100か0かでしか人生を見ていなかったし、そういう選択肢しかなかった。

昔の自分、すごく惜しいことをしてたなあと思う。人間、そう都合よく勝ちを重ねられるわけはない、たまに勝ってたまには負けるだろう。「自分は勝ち続けていける」という自信、とても危険だと思う。新卒のころの自分に、「まず敗北を念頭に置け」と伝えてあげたい。多分、ロクに聞かないだろうけど。

負けたら負けたで、別にそれですべてが終わるわけじゃないんだ。新卒で入った会社、そこそこ大きな会社だったけど、とんでもない失敗をした社員でも、クビになることはまれだった。さすがに、刑事事件はクビになっていたが。うつ病で休職する社員なんて、ゴロゴロいた。

「現代日本は失敗に不寛容」とか言われるけど、まあ、クビにならなければいいじゃない。お給金がいただけて、飯は食っていけるわけで。あと、社内での失敗なら、転職してしまえば消えます。

話が逸れた。結局、自殺が善いか悪いかは知らない。私も「死にたい」と思うことは頻繁にある。ときにはうつの発作で、ときには将来への不安で、「死にたい」と思う。

反面、常に「生きていたい」とも思っている。自分の人生を振り返って、身を持ち崩してから10年経ってしまって、いまだドン底かもしれないけど、よくなる兆しが見えてきてる気がする。「もしかしたら、もっといいことがあるかもしれない」という、さもしい希望が捨て切れない。

自分のなにげない毎日が、愛おしいしありがたい。明日も起きて、ご飯を食べたい。コーヒーを淹れて飲みたい。熱いシャワーを浴びたい。ウトウトして、そのまま眠りたい。

「明日はもっといい日になる」保証なんて、なんにもない。でも、そもそも「いい日」ってなんだ? 今日「最悪だ」と思った体験が、何年後かには自分にとっての大きな糧に、あるいは笑い話の鉄板ネタになってることは、よくある。逆に今日「楽しい」と思ったことでも、あとあと悪いことになることがあるな、酒の席とか。自分にとっての「いい」「悪い」を、現在だけで判断するな、多少寝かせてみよう。そのために、時間が必要だから、死を急がないでほしい。

死んだAの人生で、これから先になにが起こっていくのか、Aがどう変わっていくのかを見たかったし、知りたかった。Aの才能が、花開いて実を結ぶところが見たかった。Aの人生が、どういうふうに広がっていくのか、Aの生活が、どう変遷してどこへ着地するのか、Aが毎日なにを見てなにを感じているのか、A自身の口から、それを聞くことができないのが、Aを失ってしまったことがとても悲しいし、つらい。Aもつらかったのだと思う、耐えられないほどつらかったのだと思う。でもやっぱり死んでほしくはなかった。

人生は美しいものだと思う、私は私の人生を、美しいものにしたい。だから、これからも死なずにちゃんと生活して、日々の生活を重ねて、最後に「これが私の人生だ」と、胸を張って言えるものにしたい。

自分の人生が無意味だなんて思いたくない。飯を食って寝てるだけでも、少なくとも私にとっては意味がある。世のため人のためとか、なにかでっかいことをとかは考えなくてもいい。ただ毎日起きて少し身体を動かして食事をして薬を飲んで寝る、それだけでいい。とりあえず、生きていればいい。たしかにアレコレ言ってくる人もいるが、今はこれしかできないんだから、これでいいと思うしかない。

生きてさえいれば、日々は続いていく。まわりから見れば、なにもないような私の生活でも、私の目から見たら、とても美しい生活だから、できればずっと眺めていたい。生きるために生きている、それでいいと思う。

おなじように、すべての人の人生も、美しいものであってほしいと思う。死んだら終わりだ。人生をもっと美しいものにしてほしい。

自殺してほしくない。

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