べつに大袈裟なことじゃなくても、たくさんある。
たとえば最近は暑く、またジメジメしてきて、とみに夏めいてきた。
春の終わりと夏の始まりを感じるが、この感じを言葉にするのはむずかしい。
もちろん、無理やり言葉にすることはできる。
たとえば気温や湿度といった数値で、定量的な変化を見つける。
日差しの強さや日焼け跡など、目に見える変化もある。
植物や動物も入れ替わる。紫陽花がつぼみをつける、コバエが飛び始めるなど。
ただ、何度も言うが、言葉にするのはむずかしい。
「暑くなってきましたね」
「蒸しますね」
「日差しが強くなってきましたね」
「草花が青くなりました」
「虫が増えましたね」
さまざまな感想を述べることはできるが、どれも事象の一側面しか表現していない。
ストレートに「春が終わりましたね」「夏が来ましたね」と言うのもアリだが、これも適切ではないと思う。
そもそも「春」「夏」「季節」とはなんなのかという話になる。
たとえば、二十四節気をもとに「夏至から先を夏とする」と言えなくもないが、実際の季節というのは、徐々に移ろっていく。
二十四節気を待たずとも、私たちはおりおりに「季節が変わる気配」を感じる。
人の心もそう。移ろうものだから、そのときの気持ちを「コレ!」と定義するのはむずかしい。
たとえば、人を慕う気持ち。それが友情なのか、恋慕なのかは、時と場合によるだろう。
喜怒哀楽、すべてそう。スペクトラムのようなもので、おなじ出来事に対しても、ときには喜んだり、ときには哀しんだりする。
人の幸せを妬んだことはないだろうか。私はある。
親しい友人が事業を成功させたとき。本来であれば、諸手を挙げて祝福すべきだったし、そうしたかった。
しかし、私はそのとき仕事に挫折しかけていて、自分とは対局の成功を収めた友人のことを、心では祝福できなかった。
口先で「おめでとう」とは言ったが、まったく心はこもっていなかったし、それは相手にも伝わっていたと思う。
親しい友人が結婚したとき。
私はずっと独り身だったから、結婚式の最中はニコニコしていたが、心のなかは妬み・僻み・嫉みでいっぱいになっていた。
それを取り繕うように、不自然に笑い、大袈裟に祝っていたことを覚えている。
こういうとき、外面だけを考えたら、口先だけでも「おめでとう」と言うのが正しいのだろう。実際、私はそうしてきた。
ただ、本心は「おめでとう」だけではない。もちろん「おめでとう」と思う心はあるのだが、それ以上の嫉妬が渦巻いていることもある。
自分というひとりのなかにも、祝福や嫉妬、その他さまざまな感情が、同時に存在する。
それは、統合されているとは限らない。分裂したままプロットされているかもしれないから、一言で語ることはむずかしい。というか、多分できない。
そういうとき、口先だけで「おめでとう」と言うと、その他の感情にフタをするようで、かえってつらくなる。
かといって、相手に嫉妬を伝えるのは、絶対によくない。場の雰囲気が悪くなる。誰も得しない。
言葉にできないことは、ムリに言葉にしなくてもいいと思う。「言う必要がないことは言わなくていい」と言い換えてもいい。「お前が言うな」という話かもしれないが。
言葉にするということは、非常に危険な行為だと思う。言葉は事象を定義する。定義された事象は現実になる。
「夏が来ましたね」と言ってしまえば、季節は「夏」になる。「おめでとう」と言ってしまえば、「祝福」だけが形になる。
だけど、ものごとはそんなに単純ではないと思う。春と夏の境目は曖昧だし、祝福の裏には嫉妬が隠れている。
なにごとでもそう、事象の背後には、一言では語り尽くせない複雑さがある。
だからどうするのか。いちばん賢いのは、「言葉にしないこと」「いったん胸にしまっておくこと」だと思う。
感情にせよ環境にせよ、とても複雑で曖昧なものだ。
言葉という枠に無理やり収めるのではなく、複雑なものは複雑なままで、曖昧なものは曖昧なままで、とりあえず受け入れるのもいいと思う。
もちろん、複雑なものや曖昧なものを解き明かす努力は否定しない。科学は大事だし、言語化することは、とてもとても大切なことだ。
ただ、ムリはしないほうがいい。無理やり言葉にした先に待っているのは、抑圧だったり、分断だったり、排除だったり、なんにせよロクなものではない。
繰り返しになるが、世界も社会も世間も自分自身も、とても複雑で、とても曖昧で、とても一語で定義できるものではない。
言語的な明瞭さや、わかりやすさを求める必要はない。複雑なものは複雑なまま、曖昧なものは曖昧なままで受け入れればいいと思う。